小さなミステリー


      

退役軍人の町、クーランガッタ


      急発進。急停車。
      もう少し丁寧な運転はできないものか。年代物のバスはキーキーとブレーキを軋ませ、
     ガタガタと、今にもドアの一枚くらい外れそうな音をたてる。
      キャプテン・クックの上陸地クーランガッタに行ってみようと乗った路線バス。行き
     先表示がなく、車内放送もない。止まる度にバス停を見るが、地名や停留所名はどこに
     もない。
      これでは地元の人間しか利用できぬではないか、と腹が立つ。
      突然、長髪にブーツのあんちゃんが話しかけてきた。横柄で、まだ昼前だというのに
     酒臭い。
      喧嘩でも売ってきたのかと思ったが、何を言っているのかさっぱり判らぬ。ニ、三度
     訊き返すと、フン!という感じで後ろを向いてしまった。
      バツの悪さを隠すため、近くの美人に、彼は何を言ったのかと尋ねた。何のことはな
     い、バーレイヘッドまであとどのくらいかと訊いたのだと言う。
      それなら今しがた通り過ぎた筈だ。このオンナ、分かっていながらどうして教えてあ
     げなかったのだろう。
      といって、私ももう一度その酔っ払いと話をする気にもなれないから、黙っていた。
      ところが、これがきっかけになったのか、美しくはないオバサンがしきりと私に話し
     かけてくるようになった。なぜかワッカナイなどという日本の地名が出てくるのだが、
     それがどうしたのか、てんで判らない。
      我ながらお寒い英語力に恥じ入るばかりだが、相手はどうもそんなことには一向頓着
     なく、いつかな話の尽きる様子がない。
      私は乗り過ごしては大変と気もそぞろで、曖昧な返事をしながら外ばかり見ていたが、
     幸いにも、そのオバサンはまったく唐突に「シーヤ!」とか言って降りて行ってしまっ
     た。
      なんだかほっとして、急に気が楽になる。余裕ができたせいか、乗客同士の会話も耳
     に入ってくる。ワンダイなどという発音が聞こえ、なるほどここはオーストラリアだと
     悦に入っていると、タイムタイブルという言葉が聞こえてきた。タイムテーブルのこと
     に違いなく、これにはさすがに驚いたが、それでもこんなのはオージー・イングリッシ
     ュとしては初歩と言っていい。
      スタイブル(ステイブル)あたりはまあ見当もつくが、マイクなどと言われたのでは
     面喰ってしまう。それがメイクのことだと判明したころには、相手の話はずっと先に進
     んでいて、ついてゆくこともできないのである。
      そこで、耳慣れない言葉はすぐに綴りを訊くことにしているのだが、これもAとIが
     同じに聞こえるので、いちいち、「アップルのA? インディアンのI?」と確認しな
     ければならない。
      かなり走って、椰子の木の立ち並ぶ白砂の浜辺が見えた所で、運転手が前を向いたま
     ま、
     「ガイ!」
     と叫んだ。
      よもや自分のこととは思いもよらず、窓外の海に見とれていると、恐ろしく体のでか
     い、タンクトップから胸毛のはみ出した男が私の方を見て、「ガイ!」と言う。いぶか
     る私に向かって、あくまで不愛想にもう一言、
     「クーランガッタ」。
      私はうろたえて、ここがクーランガッタかと訊いた。男はニコリともせず、頷いた。
      狐につままれたような気分でバスを降りる。
      それにしても、私は誰にも行く先を言っていない。なのにどうして運転手はあそこで
     私を呼んだのだろう。それにあの胸毛男は、運転手が振り向きもせずに行った「ガイ」
     が、どうして私のことだと判ったのだろう。
      私は、バスの走り去ったあとで、通りかかった老人に、もう一度、ここはクーランガ
     ッタかと尋ねた。
      老人は、直立不動の姿勢をとり、軍隊式の敬礼をすると、わざとらしい口調で、
     「イエス・サー」
     と答えた。
      私は無論、不愉快であった。
      クーランガッタが退役軍人の好んで住む、反日感情の強い土地だと知ったのは、日本
     に帰ってしばらくしてからのことであった。


九州往復ケチケチ旅行(5) お羊様にうんざり、げんなり
     
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