ヨーロッパ美術巡り(2)


失敗続きを恥じもせず

     
   

      3日目。ゆっくり起きて9時過ぎ、アンネ・フランクの家に行く。
     運河沿いの、何の変哲もないアパートで、うっかりすると通り過ぎ
     てしまいそうだ。間口の柱に 263 Anne Frank Huis と小さく書い
     てあるが、これとても、それを意識して探さなければ見落としてし
     まう。
      中に入るとすぐ、小さなカウンターがあり、そこで女の人が切符
     を売っている。
      狭くて急な木の階段を、膝をぶつけそうになりながら登ると、本
     棚があり、その裏が通路になっている。隠れ家というイメージよりは広いが、2家族7人
     が2年間、窓も開けられずに過ごしたと聞けば、やはり狭いということになる。
      私たちはべつにナチから隠れているわけではないから、窓を開けて外を見る。下はアパ
     ートの中庭で、こんな狭い「景色」を見ることさえできなかったと聞き、胸が詰まる。空
     は殆ど見えないが、そのわずかな空に西教会の尖塔が見える。
      私は『アンネの日記』を最後まで読んだことがないが、それでもアンネ・フランクの短
     い人生がどんなものだったか知らないわけではない。そのアンネが息を潜めて暮らしてい
     た狭い部屋に立って、やりきれない思いに言葉を失っていた。
      それなのに、あの二人連れのオバサンは大はしゃぎで記念写真を撮り合い、挙句に別の
     人にカメラを渡して二人並んで撮り直したりしている。場所柄もわきまえず、周りの迷惑
     も考えず、写真を撮ることだけにうつつを抜かしている様は中国人と同じだ。
      ツアーというのは、いろいろな人が参加するので、アンネの家をただの観光名所だとし
     か思わない人がいるのは仕方がないが、せめて静かにしていてもらいたいものだ。
      
      加えてツアーというのは、個人の感傷などには関係なく次々と名所旧跡を回らなければ
     ならない。このときもアンネはアンネ、観光は観光という感じで追い立てられ、ユトレヒ
     ト郊外のハールザイレンス村に連れて行かれた。
      連れて行かれたというのはいかにも気の進まない行程という表現で、事実その通りだっ
     たのだが、このハールザイレンス村というのはどうしてなかなかの所であった。
      デ・ハール城というロスチャイルド家の居城があり、その城下町がハールザイレンスで
     ある。城主の紋章が赤と白であるため、家々が忠誠を示す意味で窓枠や戸口を赤と白とで
     塗り分けてあるということで、確かにどの家も紅白の単純な意匠で塗られている。
      単純なるがゆえに、また鮮やかな色であるがゆえに、どこか素朴で温かみがある。
      ゆっくり散策したいところであるが、ツアーの悲しさでバスはややスピードを落として
     一角を回っただけで、デ・ハール城に向かう。
      このときの無念さは相当なもので、私はちょうど20年後に予定をやりくりしてこの村
     を再訪したくらいである。
      さてデ・ハール城には、現在も城主というものがいるそうで、毎夏1か月だけここに滞
     在するという。この大きな空間を11か月も開けておくとはなんたる贅沢かと思いきや、
     どっこいそこはしっかりしていて、城主のいない間は観光客に見せて入場料をせしめてい
     る。
 広大な敷地にはローマ庭園、フランス庭園などが造られ
ていて、このときはバラが咲き誇っていた。というが、実
は私は最近までそこに咲いていたのはチューリップだと思
っていた。
 数年前、この城にまた行く計画を立てて伊藤さんに「今
度デ・ハール城に行くんだよ。覚えてる? ほら、あのチ
ューリップが咲いていたあの城さ」と言った。
「もちろん覚えてるよ。だけどあれはチューリップじゃな
い。バラだよ」
 何度も書くが、私の記憶力というのはこんなもので、過
去のいろんな場面が抜け落ちたり入れ替わったりして、不
     正確極まりない。
      それはともかくとして、広い池に浮かぶように建っている石造りの城館は、要塞という
     イメージよりはお伽噺に出てくる慈悲深い領主の住む平和な館のように見える。窓の扉が
     赤と白とで塗られていることも、城というものの持つ厳しい雰囲気を和らげているのだろ
     う。
      ちなみに現在の城主というのは、名君というよりは単なる金持ちのようで、城内にこれ
     見よがしに並べられたコレクションなどは脈絡がなく、しかもあまり趣味が良いとも言え
     ない。中世の甲冑などはまあ、城だからいいとして、日本の大名籠や象の足までが置いて
     あるのはいったい何の意味なのか。

      バスはデルフトに向かう。
      石畳の市庁舎広場でほんの少しだけ自由時間。協会の鐘が鳴り、馬車が走り、鳩が群れ、
     なかなかの雰囲気だ。カフェテラスでゆっくりコーヒーでも飲みたいところだが、ツアー
     の悲しさで、添乗員の号令一下、羊の如く集められ、デルフト焼きの窯元見学となる。窯
元と言ったって工場を見せるわけではなく、お姉さんが一人、絵
付けのデモンストレーションを見せているだけで、あとは例によ
ってのショールーム。
 デルフト焼きといえば無知な私でも知っているくらい有名だが、
素人目にも出来の良いものとそうでないものとがあり、良いもの
は目の玉が飛び出るほど高い。
 私は出来の悪い、安いものを女房への土産として買った。風車
の絵か何かが描かれているいかにも観光土産といったもので、し
ばらくは飾り棚に置いてあったと思うが、いつの間にか無くなっ
     てしまった。
      18万円のイヤリングを買った人とは大違いである。

      そのあとハーグへ。
      ここには楽しみにしていたマドローダムがある。オランダ各地の建造物を25分の1サ
     イズで作ったミニチュアパークで、マドローという人の名をとってマドローダム(マドロ
     ーのダム)と名付けられたそうだ。
      といっても、私はマドローというのがどういう人なのかを知らないし、ダムという言葉
     の意味も知らない。オランダにはアムステルダム、ロッテルダム、フォーレンダムなどと
     「ダム」のつく地名が多いし、アムステルダムにはダム広場という場所もある。どうやら
     堤防という意味らしいのだが、それではマドローさんの堤防とはどういう意味なのか、さ
     っぱり解らない。
      まあいい。とにかくマドローダムというミニチュアパークがあることは子供のころから
     知っていたし、数年前に台湾のミニチュアパーク「小人国」に行ってから、本家であるマ
     ドローダムに行ってみたいという思いは募っていた。
      しかし、勢い込んで行ったそこは、正直なところ期待外れであった。
     「小人国」には世界中の著名な建造物が並んでいたし、この旅行の数年後にできた「東武
     ワールドスクウェア」も洋の東西にわたる有名な建物が精巧さを競っているが、マドロー
     ダムにはオランダ国内のものしかない。スキポール空港で飛行機が滑走路を移動している
     様子が誇らしげに展示されていたりするが、どうも模型マニアの作ったジオラマのように
     しか見えない。
      それはそれで一つのポリシーであろうから、優劣を言うつもりはないが、知っている建
     造物が窓枠一つ一つまで精密に作られているのを見て「そっくりだ!」とはしゃぐのがミ
     ニチュアパークの醍醐味であることを思うと、オランダ人しか知らない建物が沢山あって
     も、イマイチ興味が湧かないというのが実際のところだ。

      ホテルのある所は
Scheveningen (スヘフェニンゲン)という地名だそうだが、これは
     どう読んだってスケベニンゲン(助平人間)としか読めない。添乗員の山野井さんは「ス
     ケベじゃないですよ。スヘフェですよ」と念を押していたが、あとで調べると、スケベニ
     ンゲンと発音してもちゃんと通じるし、そう発音する現地人もいるそうだ。
      もっとも、その人たちは別にそれがおかしな言葉だという意識はないから、面白がって
     いる日本人を見ても理解できないだろう。
      偶然日本語と同じ音になってはいても意味には何の関係もない地名というのはあちこち
     にある。
      インドネシアのキンタマーニは有名だが、他にもオーストラリアのエロマンガ、ロシア
     のヤキマンコ、中央アフリカの・・・、まあ、やめておこう。
      北海に面した「シュタイゲンベルガー・クアハウスホテル」という大きなホテルに泊ま
     る。古いホテルらしく、調度品なども年代物のようだ。ということは、エレベーターやバ
     スルームの使い勝手が悪いということを意味する。
      まあ、そんなことはいい。部屋に興味はないのですぐに外に出る。ホテルの裏がそのま
     ま広いビーチになっていて、泳いでいる人はあまりいないが、歩いている人は多い。
      二人連れはいまいましいが、家族連れはほほえましくて良い。
      カモメが多く、人に慣れているらしく、近寄っても逃げない。
      普段見ているカモメとは違い、体も大きく、肩から尾にかけて茶色の斑になっている。
     珍しいので写真に撮り、あとで図鑑で調べてみると、オオセグロカモメが冬羽になったと
     きの姿に似ている。とはいえ、このときは夏の盛りであるから、当たっているかどうかは
     分からない。まあいい。
      いったん部屋に戻り、ハーグ市主催のレセプションというのに出る。予め言われていた
     ので、上着、ネクタイは勿論、靴まで持ってきてあった。
      だが、何のことはない。貴賓室かどこかでハープの生演奏でも聴きながらやるのかと思
     っていたら、ホテルのロビーの一角でジンライムを1杯飲み、観光局のなんとかいう男性
     と取り留めのない話をしただけ。1時間足らずで終わってしまった。ハーグ市からの土産
     というものを貰ったが、栞だったか栓抜きだったか、とにかくこれが土産かと思うような
     詰まらない物だった。
      唯一良かったのは、ホテル学校の生徒だという女の子が民族衣装を着て出席したことだ。
     色白でにこやかで、何も喋らない。それでいい。 
      その後、同じ階のレストランで食事。宮殿のように天井が高く、ぐるりとギャラリーが
     付いている。
      料理は予めツーリストが手配してあったらしくテーブルに運ばれてきたが、中央にビュ
     ッフェテーブルがあり、それも自由に食べられる。生のニシンに玉ねぎのみじん切りをか
     けたものが並んでいる。
      生とはいっても骨を抜いて塩漬けにしてあり、食
     卓に出す前に塩を抜くらしい。オランダの名物料理
     だそうで、その食べ方もまたオランダならでは。
      たまたまこの旅行の少し前にテレビで紹介されて
     いたその食べ方とは、尻尾をつまんで顔の前にぶら
     下げ、パン食い競争のように丸ごと食べるのだとい
     う。
      ああこれだ、と思ってテレビを真似て私も食べる。生臭いが、珍しさが勝って何匹か食
     べた。
      伊藤さんは常々アサリを生で食べる私を軽蔑の目で見ていたが、このときもそんな生臭
     いものをよく食べられるな、と呆れていた。
      ずっとあとになって何かの席でその話になり、私が「だってオランダの代表的なニシン
     料理なんだから」と言ったら、「あれはニシンじゃないよ。アンチョビだよ」と言って、
     またしても私を軽蔑した。
      ニシンだとばかり思っていたし、せっかくテレビと同じものを同じ食べ方で経験したと
     思っていたのにがっかりだが、ニシンもアンチョビも分からぬ私のとんだ勘違いとして反
     省するしかない。
      それにしてもあのレストランは、なんだってテレビで放映されるほど有名な料理と見ま
     ごうようなものを、テレビと同じように並べていたのだろう。そういうことをするからこ
     っちが間違えるのだ。(とグズグズ言うところが反省が足りないのではあるが)
      夕食後、まだ明るかったのでまたビーチに出る。北海に沈んでゆく夕日を見てちょっと
     した感動を覚える。どこの夕日だって、夕日は夕日なのだが、北海という小学校のときに
     白地図に名前を書き込んだりした海だと思うと、なんとなく別の夕日のような気がしてく
     る。

      4日目は、前夜疲れて風呂にも入らずに寝てしまったので、朝風呂に入る。
      旅先での朝風呂は至福の時間だ。昔、北杜夫さんの『楡家の人々』を読んで、その中に
     朝風呂でゆっくりと体が目覚めていくくだりがあった。なんとも羨ましい話だと思い、自
     分もそんな生活をしてみたいものだと思った私は、家を建てるときに当時の一般家庭には
     殆ど普及していなかった洋バスをつけてもらった。
      なるほど浅い浴槽に寝て目をつぶっていると、心身ともに心地良く目覚めていくのが実
     感できる。これはなかなかいいもんだ、と思って続けていたが、その月から水道代、ガス
     代、電気代が跳ね上がった。わずか数か月で夢の生活は終わり、その後は旅先でしか朝の
     贅沢はしていない。
      この朝もゆっくり時間をかけた。古い、宮殿のようなホテルで、浴室もカーペットを敷
     いてあり、洗い場はない。私も朝風呂であるから洗う気などはなく、じんわりと体に沁み
     てくる湯を楽しんでいた。
      そして、さて上がろうかと思ったとき、大変なことに気がついた。床が一面水浸しにな
     っていたのである。仰天してバスタブの湯を抜き、バスタオルで床の水を吸ってはバスタ
     ブで絞る。ハンドタオルもフェイスタオルも全部使ってその作業を繰り返し、ようやく目
     に見える水は無くなったが、無論カーペットは歩くたびに音がするほど濡れている。
      バスタブから溢れたわけではないので、おそらく給湯管の接続部分が緩んでいたのだろ
     う。まったく気がつかなかったというのは迂闊のそしりを免れない。
      私は今、古城ホテルなどと呼ばれる古い格式のあるホテルに泊まることを好まないが、
     それはこのときの経験がトラウマになっているからである。

      バスでアムステルダムに戻り、スキポール空港へ。スペインへの移動なのでギルダーを
     ペセタに替える。
      今はユーロになったので国から
     国への移動で通貨を替える必要が
     ないが、当時はいちいち両替をし
     なければならなかった。面倒とい
     えば面倒だが、それぞれお国柄を
     感じさせる通貨を手にして、「あ
     あ、ドイツに来た」「いよいよス
     イスだ」などと実感するのは、旅
     の楽しみでもあった。
      バルセロナに着いたところで、
     今度はドルをペセタに替える。
      スペインでのガイドは潮さんという若い男性だった。鼻の下に八の字の髭を蓄えている。
     スペインのチンピラなどになめられないようにという工夫だそうだ。
      ツアーの一員である中年の男性が、ペセタと円の交換レートはいくらかね、と偉そうに
     訊いた。潮さんは「今、円は強いですよ」とだけ答えた。百万も二百万も替える訳ではあ
     るまいし、足かけ3日しかいないスペインの通貨レートがわざわざ訊くほどのことなのか。
      団体で旅行をすると、必ず一人や二人、知識をひけらかしたり下らない質問をしたりす
     る輩がいる。質問をすることで皆に自分が旅慣れていることを見せつけようという、鼻持
     ちならない人種だ。
      バスは大きかったが、クーラーが効かない。走り出して間もなく、一人の女性が乗り込
     んできた。そのまま一番前の座席に坐り、我々がバルセロナを離れるまで乗っていた。潮
     さんが紹介する訳でもなく、自己紹介する訳でもない。客と話をする訳でもなく、見学に
     付き合う訳でもない。
      外国人のツアーにはスペインのガイドを付けなければならぬという決まりがあり、どの
     バスにもこういう人が乗ることになっているのだ。といって、日本語が喋れる訳ではない
     から、実際のガイドは日本人がする。つまりスペイン人の失業対策だ。
      それならそれで、せめて愛嬌を振りまくとか、「コンニチワ」ぐらい言ってもよさそう
     なものだが、そんな気配はさらさらない。無表情で、ただ坐っている。おそらくガイドと
     しての訓練など受けていないのだろう。
      3年後に迫ったバルセロナ・オリンピックのメインスタジアム前を通ったが、工事中で
     フェンスに囲まれているので、どうといって面白いこともない。
      モンジュイックの丘に着いたとき、バスの中で伊藤さんが
     「サルダーナだ!」
     と叫んだ。
      聞いたことがない言葉だったので何を言っているのか判らなかったが、伊藤さんの指さ
     す方を見ると、7~8人の男女が輪になって手をつなぎ、その手を高く上げている像があ
     った。真っ白で、石膏か何かでできているように見えるが、石膏だったらすぐに壊れてし
     まうだろうから、多分セメントで作って白く塗ったものであろう。
     「何あれ?」
     「踊りだよ。スペインの踊り」
     「ふーん」
      とくに興味も湧かなかったが、あとで潮さんに聞いてみると、民族の団結を象徴する踊
     りだそうで、週末に街の広場などで踊っているのをときどき見かけるとのこと。但し年寄
     りばかりで、この像のように若い男女はいないらしい。
      どうも伊藤さんは、いろんなことを知っている。

      何か所か寄ったあと、グエル公園へ。さすがに私もこの公園の名前は知っていた。アン
     トニオ・ガウディが設計した公園で、園内いたる所にガウディの作品がある。それらはベ
     ンチであったり階段であったり、塔であったり回廊であったりする。どれも奇妙奇天烈な
     意匠で、極彩色のタイルを使っている。およそ秩序というものがなく、まるで子供のいた
     ずらだ。
      それでも見ていて嫌悪感が湧くということもなく、遊園地の飾りつけのように安っぽい
     感じもしない。なんとも不思議な空間であ
     る。
      今回のツアーは美術館巡りが柱ではある
     が、美術館をいくつ回ったかということが
     重要なのではない。こういう所で説明のつ
     かぬ空気、妖気を堪能するのも大いに結構
     で、私も初めてガウディという奇人に親し
     みを覚えた。
      それなのに、公園のトイレには無粋なこ
     とにチップおばさんがいた。外国旅行では
     当たり前のことではあるが、たかが小便を
     するのにカネを払うというのはどうも腹立
     たしい。
      幸いおばさんは自分で受け取るのではなく、箱にチップを入れるのを見張っているだけ
     なので、5ペセタだけ入れて用を足した。

      サグラダ・ファミリアへ。
      バルセロナを代表する、いやスペインを代表する教会建築で、その奇異な形が世界中に
     知れ渡っている。これもまたガウディの設計によるものだ。
      といっても設計図はなく、ガウディが亡くなったあと、建築家たちがああでもないこう
     でもないと言い合いながら60年も工事を続け、いまだに完成していないのだという。
      生誕の門と呼ばれる入口を飾る彫刻群は写真で見るよりははるかに複雑で、しかも荘厳
     な趣きがある。その中に外尾悦郎さんという日本人の手による彫刻がある。女性がハープ
     を奏でている姿だ。
      外尾さんは現在もそこで彫刻を続けているそうで、三賢人や天使、農夫や兵士など数々
     の像が一連の物語を作っているらしい。しかし、このときはハープを奏でる女性とマリア
     がイエスを産湯に入れているような像だけだった。
      私が見落としたのかも知れない。そもそもその女性像が日本人の彫ったものだというこ
     とは伊藤さんに言われて知ったことで、言われなければよく見もしなかっただろう。
      ともあれ大変に荘厳な門で、大いに感激した。余韻冷めやらぬまま反対側の門に回る。
      なんと、そこは生誕の門とは大違いで、柱も彫刻もモダンアート風で教会という感じが
     しない。人物も彫られているのだが、顔などはのっぺらぼうで、潰れたてるてる坊主のよ
     うだ。
      なんでまたこんなことをするのかと憤慨したが、潮さんによれば、設計図がないので、
     時代毎の建築家や彫刻家がそのときどきの解釈や表現で工事を進めているせいらしい。
      どうもいやなものを見てしまったような思いをしながらエレベーターで塔に登る。
      吹きさらしの工事現場のようで怖い。早々に降りて正門前の土産物屋に。なぜか日本刀
     が売られていたりして訳が分からない。伊藤さんは中世の甲冑に見入っている。もちろん
     複製品だが、どうも本気で買おうとしているらしく、値段や輸送方法などをしつこく訊い
     ている。
      結局買わなかったものの、ダイヤだの甲冑だのと、いったいいくら持っているのだろう。
 


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