台湾大名旅行(2)


恨みごとを言わぬ人々に恐縮


 3日目は烏来(ウーライ)という所に行った。
 この日も楊さんと謝さんが迎えに来て、楊さんの車で出る。台北市街を抜けると道は細くなり、山道をくねくねと走って小一時間で烏来。町は川の両側にあり、石橋の上から見ると両岸にホテルや食堂がびっしりと建っている。日光の鬼怒川にそっくりだ。
 1軒の食堂に入る。どうやら楊さんの親戚かなにからしい。平井さんはここの常連らしく、ヤァヤァと大声で挨拶をし、いきなり世間話を始めた。食堂の人も日本語を淀みなく話し、私にもお茶やら菓子やら勧めてくれる。それはいいのだが、初対面なのに私の名も聞かない。
 どうも互いに氏素性の分からぬ者同士が前置きなしに世間話をするという流れには乗りにくく、私自身はどういう態度を取っていいのか測りかねる。
 しばらくは聞き役に甘んじていたが、どうにも溶け込めず、1人で散歩に出る。さきほどの橋に戻ってみると、川の水は澄んでおり、ウグイのような魚が沢山泳いでいる。
烏来の町(楊さん撮影)

 ぶらぶらと歩き回ったあと食堂に戻ると、平井さんたちはまだ世間話をしていた。日本には三枚網という漁具があり、文字通り魚を一網打尽にできるというような話だ。楊さんも謝さんも大いに興味があるとみえ、そのうち平井さんが網を送るという話になった。本気なのか出まかせなのか判らない。
 チャーハンと野菜や魚、それに川エビなどの料理が出て、ビールを飲みながら昼食になる。そのほかにも炒め物などが出たように思うが、確かな記憶ではない。
 終わって、やっと観光になった。この辺はタイヤル族という原住民が住んでいる所だそうで、それらしい衣装を着た男女が土産物屋の前に立っていたりする。小さな見世物小屋のような所もあり、歌や踊りが見られるらしい。
 入ってみたい気もしたが、楊さんはつまらないですよと言って先に行ってしまった。慌てて追いかけるとやがて川の対岸に滝が見えてきた。落差はかなりありそうだが幅は狭く、水量も少ない。所によって2条、あるいは3条に分れて落ちる。ナントカの滝と名前も聞いたが、忘れてしまった。
 そのあとトロッコに乗る。とくにどうということもないものだが、車両がオンボロなのと体が剥き出しになっているのとで、実際以上に速く感じる。ゴーゴーという音もスリルを倍加させている。
 それで観光は終わり。後日台湾観光に行った人の話を聞くと、この烏来には結構みどころがあるらしいのだが、私は川と滝とトロッコしか見なかった。とにかく平井さん達はどこに行っても世間話ばかりしていて、観光などにはまるで興味がないようだ。

 ホテルに帰ったのは3時頃だったか4時頃だったか記憶が曖昧だが、とにかくそのまま休んでいるのは勿体ないと思い、平井さんに無断で外に出た。
 帰れなくなると困るので、あまり遠くに行かないようにと思っていたが、看板を見ているだけでも楽しいので、ついつい先に進んでしまう。「マッサージ」とか「カラオケ」などとカタカナで書かれている看板もある。
 2、30分も歩いただろうか。「龍山寺」という所に出た。
 反り返った2層の屋根、朱瓦、棟を飾る極彩色の彫刻群。いかにも中国的な山門ではあるが、全体の雰囲気は浅草の浅草寺によく似ている。本堂の前に据えられた香炉からはもうもうたる煙が出ていて、それもまた浅草寺と変わらない。
 境内では供え物の花や菓子などが売られており、飛ぶように売れている。
 ここでも参拝客の真面目さが印象的で、私のように単なる見物人というのは見当たらない。本堂に入ると、老いも若きも男も女も、跪き、長い線香を両手で押しいただき、熱心に祈っている。何やら赤い木片を投げてはじっと見入っている人がいる。木片の形は外皮をむいて薄皮の状態にした夏ミカンのようなもので、大きさはそれよりやや大きい。占いをしているように見えるが、本当のところは分からない。
 やはり線香はタダでくれる。参拝の作法も孔子廟と同じようだ。
 本殿正面におわすのはどうやら観音菩薩らしいのだが、それ以外にもいろんな仏様やら神様やらが祀られている様子で、人々はそれを順に巡って線香を上げているらしくも見える。私はその意味も分からないので、全部1か所に上げてしまった。
 あまり清々しい気分にもならない。そもそもこのお寺の本尊が何なのかも分からないのだから、祈るといっても心がこもるわけでもない。
 とにかく、熱心に祈る人々の間に突っ立って、ただ珍しそうに辺りを見回している自分の姿はあまり好感を持って見られないのではないかという気にもなり、いささか落ち着かない気分でもあった。

 ホテルに帰るとすぐに電話が鳴った。楊さんと謝さんが迎えにきており、夕食に出る。
 屋台村に行こうとのこと。願ってもない。そういう雰囲気を楽しみたいし、何より安いので、今日こそ夕食代をこちらで持とうと思う。
 この時点で私はまだ台湾のお金を持っていなかったので、ホテルで両替をした。確か3万円ぐらいだったと思う。
 10分かそこら歩いて、広場を囲むように数十軒の屋台がひしめいている場所に着いた。無数の裸電球がぶら下がっている広場のテーブルにつくと、楊さんと謝さんが我々を残したままどこかへ行ってしまった。平井さんは平然としている。
 しばらくして2人が紙箱に入ったビールを持ってきた。ぼんやり覚えている大きさからして、多分半ダースの箱だったと思う。そしてまたいなくなった。しばらくすると大きな盆に焼き鳥やらソーセージやらを載せて帰ってきた。豆腐の入った煮物、海老チリ、餃子などもある。
 ということは、既に支払いも済んでいるということ?
「今日は私に払わせてください」
 我ながらとってつけたような申し出をしたが、もちろん一笑に付された。平井さんは、ご馳走になるのが礼儀なんだよ、と図々しいことを言っている。
 酒類は屋台には置いていないそうで、ビールは近くの酒屋で買ってきたらしい。箱ごと冷えており、銘柄は忘れてしまったが、すこぶる美味い。先日は紹興酒の乾杯でかなり酔ったが、ビールならいくらでも飲める。
 途中、私はトイレに行くふりをして屋台に行き、ローストチキンを4人分買った。なにやら中国語で言われたが、むろん解らず、指を4本出して「スー」と言ったら売ってくれた。値段は分からないので持っている紙幣を見せると、そのうちの1枚を取って、お釣りをくれた。
 席に戻ると、楊さんと謝さんが「タマゲタ!」と言った。その言葉に私の方がたまげた。

 4日目は故宮博物院に行った。
 第二次世界大戦後、中国での内戦で中華民国政府が台湾に撤退する際に、北京の故宮から選りすぐりの文物を持ち出した。それを収蔵したのがこの故宮博物院だという説明だった。
 収蔵品の質量は他を圧し、そのため世界の4大博物館の一つに数えられているということだが、どういうわけか私には何を見たのかほとんど記憶がない。いわゆる書画骨董がこれでもかというほど並んでいたように思うが、もともとそういうものに興味があるわけでもないので、どうという印象もない。
 ただ、甲骨文字だけは鮮やかに脳裏に残っている。亀甲や牛骨を焼いて、その熱でできたひび割れによって吉凶を占い、その結果をその亀甲や牛骨に刻みこんだ文字が甲骨文字である。
 私は歴史を担当しているので、授業では毎年この甲骨文字について説明をしている。そのくせ、実物を見たことはない。思えば汗顔の至りだが、この故宮博物院で目にした実物は圧巻であった。
 彫刻刀で刻み込んだような単調な線を組み合わせたその文字は確かに世界史の教科書でお馴染みのもので、それが焼け目のある牛の腰骨に刻まれている様子は、読めないながらも十分な説得力がある。なにしろ骨の割れ目が何を意味するのかは、占い師以外には判らないのだろうから、その解説を文字で割れ目のそばに書いておくというのは理にかなったことだ。

 故宮博物院の前だったか後だったか、中正公園に行く。
 とにかくでかい。ただただ、でかい。
 瑠璃瓦を載せ、5連のアーチを構えた白大理石の門を抜けると、正面に中正紀念堂が見える。そこまで多分200メートルくらいあるのではないか。歩いていくだけで汗が出る。
 紀念堂に着くと、手前が石段になっており、その段数は90、すなわち蒋介石の年齢に合わせてあるのだと謝さんが説明してくれた。
 もっともこれはあとで夕飯のときに言われたことで、現場では全然意識しなかった。折角なら現場で教えてくれればいいものを、やはり謝さんにしてみれば平井さんとの世間話の方が大切だったのだと思わざるを得ない。
 謝さんはさらに、蒋介石は本当は89歳で亡くなっているのだが、数え年で90だからそれに合わせたのだとも言っていた。本当にそうなのか、あるいはたまたま90段だったのをこじつけて言っているのか、その辺は判らない。
 紀念堂は北京の天壇公園にある祈年殿を思わせる屋根と白亜の大理石でできた外壁から成るシンプルな建物で、そのシンプルさが却って建物の壮大さを実感させる。
 中に入ると正面に中正(蒋介石)の巨大な銅像があり、左右に衛兵が立っている。たまたま交代の時間にぶつかり、よく訓練された動きを堪能。忠烈祠でのそれと同様見事なものであるが、これまた忠烈祠同様、観光客向けの演出がくどい。
 それはともあれ、台湾の人たちが蒋介石を敬愛していることは十二分に伝わってくる。

 夜、迎えに来た楊さんの車で行った先は圓山大飯店という大きなホテルだった。
 高くそびえる中華門をくぐると正面に大きな建物がある。2層の屋根は朱瓦で形も中国風だが、その下はただの四角い建物で、あまり中国風には見えない。10階ぐらいあるのだろうか。
 一歩入るとそこは柱から床からすべて真っ赤であちこちに龍の彫り物がある。レストランにもまた龍の絵やら龍の置き物やらが多く配置されている。
 台湾を代表するホテルだそうで、私はまたしても自分の服装を悔むことになった。赤い絨毯の上をスニーカーで歩くのはいかにも気がひける。
 この日は腹の大きく出た初老の男性が待っていて、どうやらこの人がホストらしかった。
 それなのに誰もその人が何者なのか教えてくれないし、私のことも名前さえ紹介しない。平井さんは旧知の間柄だからいいが、私としては自分がどういう立場の人間であるかを聞いてもらわないと、振る舞いが定まらない。
 それでも皆、なんのこだわりもなく大笑いしながら話しかけてくれ、私が気まずく感じるようなことは何もなかった。この屈託のなさは、私の知る範囲の日本人にはないものだ。
 料理は、初日の晩餐に勝るとも劣らぬ豪勢なもので、またしても紹興酒の乾杯が続き、私はしたたかに酔った。
 酔いはしたが、私はある一点で醒めていた。あの路地でどっちを向いても必ず視界に入ってきた夥しい数の蛇。あんなに売れるということは台湾人の好物ということであろう。
 ということは・・・。
 私は原形をとどめていない肉類については、一々それが蛇でないことを確認しながら食べた。皆その度に大笑いをし、違う違うと大声で否定したが、それでは何ですかと訊くと言葉を濁すようなものもあった。そういうものに手をつけなかったのは言うまでもない。
 ホテルまではタクシーで帰ったと思うが、ロビーで礼を言うときには楊さんも、腹の出た男性も確かにいた。ということは皆でホテルまで送ってくれたということなのだろう。なにしろ飲みに飲んだので、その辺のことは確かな記憶がない。

 最終日、楊さんだけが迎えに来て空港に向かう。謝さんは仕事で今日は来られないとのこと。それなら昨日のうちにお礼を言っておくんだったと悔んだがあとの祭りで、今でも気になる。滞在中毎晩食事が一緒だったし、あちこち観光案内もしてもらった。お礼を言わずに済ませるわけにはいかない。
 楊さんに、くれぐれも謝さんによろしく伝えてくれるよう頼んだ。楊さんはハイ、ハイと応じたが、見るからにただ聞き流している感じで、とても本当に伝えてくれるようには思えなかった。
 後日平井さんに、謝さんに手紙を書きたいので住所を調べてもらえないかと頼んだが、これもウン、ウンという返事だけで、その後調べてくれた様子はなく、今度行ったときに伝えておくよということに。
 その請け合い方も実に気のないもので、多分実行はされていないと思う。

 思えば、今回の旅行ではいろんな人に望外の世話になった。
 楊さん、謝さんは滞在中なにくれとなく面倒を見てくれたし、食事もおごってくれた。社長の楊さんには豪華な夕食をご馳走になったし、その奥さんには台北市内の案内ばかりでなく小人国にも連れて行ってもらい、飲茶の食事もお金を出してもらった。圓山大飯店で接待してくれた腹の出た紳士にもかなりの負担をかけた。
 私は3万円ほどを両替したものの、屋台でローストチキンを買ったほかには使うこともなく、帰りの空港で数千円分の土産を買っただけで、残りはまた日本円に両替した。
 お金も時間も相当かけさせた筈だが、そのことに言及する人はいなかった。

 実は私はこの旅行に出る前、一抹の不安を抱いていた。
 前年韓国に行き、団体で買春に出かける日本人男性の低劣な行動を垣間見ていた。加えて日本による不当支配で韓国(朝鮮)が被った苦難の数々について、ガイドから執拗に説明された。
 買春にせよ日本統治にせよ、台湾もまた同じ辛酸をなめている。
 50年にわたる日本統治は日本の敗戦によって解消されたが、その後日本は中華人民共和国、中華民国と分れた中国のうち中華民国、すなわち台湾との国交を結ぶ。東西冷戦構造の中、台湾を傘下におくアメリカに追従するためだ。
 その後も、わだかまりのある脆弱な日台関係を強化すべく吉田茂、大平正芳、佐藤栄作といった大物が相次いで台湾を訪問し、さかんにラブコールを送る。
 それなのに、1972年、ニクソン米大統領が北京を訪問すると、日本は慌てて中華人民共和国との国交を樹立、台湾とは「国交終了」を表明する。
 アメリカの動きは中華人民共和国とソ連との仲がぎくしゃくしてきた隙を狙った計算どおりのもので、日本のうろたえぶりを尻目に、その何年もあとにゆっくりと中華人民共和国との国交を樹立した。
 まさに日本がアメリカの顔色を伺いながら右往左往し、アメリカは素知らぬ顔で自国の利益に沿ったシナリオを守ったということである。
 台湾に対する日本の裏切りは、当然台湾人の怒りを買う。日本が「国交終了」などというまやかしの言葉を使ったのに対し、台湾が即日「台日断交」という宣言をしたことからもその怒りとプライドが読んでとれる。
 だから私としては韓国以上に居心地の悪い予感を持っての台湾行きであった。
 しかし、行ってみての歓待ぶりは繰り返し述べたとおりである。接待にあたってくれた人たちは平井さんとの取り引きもあって言葉を選んだということもあるかも知れないが、その他の街中で接した人たちからも、一度として日本への怨み事が口にされることはなかった。
 買春にしても、私は実際にその目的で台湾に行った人から話を聞いていて、日本人の恥知らずな行動に身もすくむ思いであったが、滞在中、それに関する話はまったく出なかった。韓国では毎日しつこく勧誘され、憤慨したものだが、台湾人は私を常識人として扱ってくれ、それらしい話は一切しなかった。
 そういう台湾人の寛容な態度に接し、私はこれでもかと日本人を責め続ける韓国人に対してよりもずっと、台湾と台湾人に対する申し訳なさを感じることになった。
 まさに蒋介石総統の「以徳報怨」を地で行く台湾人に、頭の下がる5日間であった。

台湾大名旅行(1) 恥の基準はどこに?(1)
     
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