心痛む中国の旅
経済大国に住む後ろめたさ
世の中はどだい不公平なものである。ぼやいてみても始まらない。
だが不遇を託っているうちはいいとして、故なく恵まれてしまうと、それはそれで、どうも寝ざめが悪い。
例えば、中国の街角でカメラを構える。人々が一斉にこちらを見る。なにしろそのカメラ、日本では特に高価なものではないが、中国の平均的サラリーマンが買うとしたら、2年分か3年分の収入をそっくりはたかなければならないのである。私が悪い訳ではないが、これではやっぱり気がひける。
観光地。動き出したバスの窓枠にすがりついて、必死で土産物を売る男。手に手に刺繍入りの布袋などをかざしながらバスを追ってくる子供たち。訊いてみるとどれも日本円にして百円か2百円だという。
私たちは1泊1万円くらいのホテルに泊まる。日本なら安いくらいだが、中国の人が泊まるためには、1か月の給料を全部使っても足りない。私たちが出入りするのを道端に腰掛けて見ている中国人たちは、いったい、どんな気持がしていることだろう。
食事にしても、外国人は席が別で料理もふんだんに出る。中国の人々は窓越しにそんな私たちを見ながら、食堂の土間にしゃがんでドンブリ飯を食べている。
中国の旅は、そうした落差を見る旅であり、また中国の人々に、その不公平さを見られる旅でもある。
私は、その中国の旅を続けながら、なにか気まずいような思いに捉われ、知らずしらず行動が鈍ってくるのをどうにもできずにいた。
思えばこれまで、私はたまに外国に行くと嬉しくなり、やたら活発になるのが常であった。
それでなくても下手な英語に、カタカナで覚えた現地語を交えたりするものだから、ますます通じなくなって、迷子になったり、金を騙し取られたりする。
そのくせ、それもまた思い出だなどと悦に入って、またぞろ出かけて行く。
だからここ中国でも、はじめのうち、私は行動的であった。
ボールペンなど不足していて、あげると喜ばれると聞いたものだから、安いやつをごまんと買い込んで行った。
挨拶をしてはそれをあげ、道を尋ねてはそれをあげた。
カメラを2台ぶら下げて、アイスキャンデーを売るおじさんから、歩いている犬まで何でも撮った。
ところが、大人たちは、ボールペンを受け取ってもさほど嬉しそうな顔をしない。受け取らない人もいる。逆に子供たちは、たかがボールペン1本に歓声を挙げて走り去る。私は、なんだか自分の驕れる姿を鏡で見ているような気がしてきて、いやになり、結局数十本をこっそり捨ててしまった。
前かがみになって、材木を満載した荷車を曳いている人がいた。望遠レンズで見ると、裸の半身が汗にまみれている。
と、レンズの中のその人がこちらを見た。かなりの距離はあったのだが、カメラに気づき、うずくまるようにして顔を隠した。
私は、その人から全身で抗議されたように思い、身の置き所もない罪悪感にかられた。以後、写真が撮れなくなった。
こうして私はだんだん行動力を失い、街を歩くにも背をかがめ、なるべくめだたぬように小さくなったいった。
勿論、中国は長年夢見てきた、憧れの国である。「万里の長城」「兵馬俑坑」などと聞いただけで、若い人たちの言葉を真似て言うなら「胸キュン」となってしまう。
そして、それらの史蹟や各地の博物館をつぶさに見ることができた今、中国の史的文物に対する驚嘆の念は、いよいよ強くなった。
百聞は一見に如かずというが、子供の頃からの曖昧な知識を、今さらながら恥ずかしくも思った。
その意味で今回の訪中は、積年の懸案を果たしたことになるが、同時に、はからずも先に述べた不公平ともいえる彼我の格差を見せつけられた、心痛む旅でもあった。
私たちは偶然、豊かな日本に生まれ、暖衣飽食を当り前なこととしている。物がなければ不満を抱く。
中国に行って、それが当り前ではないと知らされたのは収穫であったが、その代償として、身の縮む思いをした。
最後の晩、中国の青年が、私は物は要りません、欲しいのは知識です、と言ったその言葉は、私には痛烈な皮肉と聞こえた。
昭和60年度 学校新聞
※ 別稿「中国視察旅行の鬱念」で述べた視察旅行で感じたことを、学校新聞に載せたものです。
同じ旅行でずいぶん違った感想を述べていることを奇異に感じられるかもしれませんが、本稿は生徒
向けに書いたものなので、中国人から感じた不快な思いには敢えて触れないようにしています。
実はこのときも中国人たちの拝金傾向は見えていましたが、その後、行くたびにその度合いが増し、
反比例するようにマナーが低下していくのを悲しく思いました。
日本も経済成長の代償として道徳が著しく低下しましたが、世界中がみな同じ流れでしか変化しない
のだとしたら、発展という言葉に大きな疑問を感じてしまいます。
中国視察旅行の鬱念(4) | 台湾大名旅行 | ||
4月中旬掲載予定 |