中国視察旅行の鬱念(3)


人の貧富、国の貧富


 
 結局飛行機は8時間ほど遅れ、南京のホテルに着いたのは夜の11時過ぎだった。
 それでも翌日は予定通りの時間に朝食をとり、中山陵へ。
 中山陵は中華民国の国父と慕われる孫中山(孫文)の墓陵で、小高い丘になっている。参道というべきか、石段がまっすぐに延びており、ガイドの曲さんによれば392段あるとのこと。言ってみれば階段状になった広場とでもいえる広い石段で、ここだけ見ても中国の国土の広さを感じてしまう。
 登りつめると正面に瑠璃瓦の壮麗な祭堂があり、「民族・民権・民生」の額が掲げられている。内部には孫文の大理石像があり、別に仰臥する孫文をかたどったこれも大理石の棺がある。中には今も遺体が安置されているそうだ。また壁には孫文が書いた「建国大綱」の全文が刻まれているが、私には読めない。
孫文の棺

 とにかく人が多い。それと、階段の両脇や麓の参道にパンダや獅子の形をした陶器の器がやたら置いてある。痰壺だそうだ。
 痰壺などというものが公共の場に置いてあるのはどういうことかと思っていたら、誰かが曲さんにその訳を質問した。曲さんは、中国人は公共のマナーに厳しく、路上に痰を吐くようなことは許せないのです、というようなことを言った。
 あとで山本さんが、中国人は公共のマナーがなっていないので、どこでも構わず痰を吐く。だから外国人が来るような場所にはこういうものを置いて、路上に痰を吐かせないようにしているんです、と言っていた。
 我々も北京に着いてからもう7日目。毎日中国人を見ている。ここはどうしても山本さんの説明の方に軍配を上げざるを得ない。

 中山陵からほど遠くない所に明孝陵という所がある。明の太祖洪武帝と后妃の墓陵であり、参道に武人や象、駱駝、麒麟などの石像が並んでいる。有名な明の十三陵の石像群に比べると小ぶりで、細工も粗い。参道も十三陵のように手入れは届いていない。そもそも人が歩いていない。十三陵が観光客でごった返していたのとは大違いだ。
 その参道を一人で歩いていると、どこからか日本語が聞こえてきた。声のする方を探してみると、40代くらいの男性がトランジスタラジオで日本語を聴いている。服装は半袖の肌着に半ズボン、サンダルで、お世辞にも豊かな感じではない。そばに奥さんとまだ学齢に達していないと思われる男の子がいる。
 話しかけてみると、まことに人の良さそうな笑顔で応じてきた。挨拶がやっとできる程度の日本語で、ほとんど会話にはならなかったが、それでも断片的な話によれば、日本語ができるようになれば報酬の高い仕事につけるから勉強しているのだということらしかった。とくに日本語学校に行っているとか誰かについて習っているとかいうことではなく、ひたすらラジオの講座を聴いているらしい。
 気の毒ではあるが、これから先、仕事につけるほどに上達するとはとうてい思えない。実直そうな男性と、日本語の上達を信じて夫を見上げている優しそうな奥さんを見ていると、やりきれないほど心が痛む。
 全線随行の王さんに聞いたところでは、中国では外国語を学ぶ学生を国が指名する。現地ガイドの徐さんたちも国の指示で日本語を学び、ガイドになったのだという。
 つまり、国が必要な人員を確保しているのであって、一民間人がラジオで勉強したぐらいでは日本語を使う職につくのはほとんど無理な話なのだ。
 無責任に励ますのもどうかと思うし、さりとてそれは無理ですよと言うのも残酷だし。私はその話に深入りしないで笑って別れるしかなかった。この旅行からもう26年も経つが、あの夫婦のことを思い出すたびに、自分が悪いことをしたような、心の痛みを覚える。

 8月5日、朝。団長がホテルの床屋に行くから通訳として一緒に来いと言う。
 なにしろ中国語が得意ということになっているので断るわけにもいかない。床屋の前に行くと、日本語の張り紙がしてあった。
「あなたの旅疲を取り愉しい旅行ができるように本館ではマッサージサービスをあります。くじいたがなおれるし、からだもくつろげて血の循環をなおれます」
 なんだか頼りない日本語だが、ともあれ日本語が書かれているのだから、日本語で用が足りるのだろうとホッとして中に入る。60代くらいの男性が一人でタオルなどの準備をしているところだった。
「お早うございます」と言うと、お早うございますと返事が返ってきて、よしよしと思ったが、日本語はここまで。あとは何を言ってもさっぱり通じない。やむなく下手な英語に変えたが、これも通じない。それでも身ぶりを交えてなんとか髭剃りとシャンプー、それに簡単なマッサージだけでいいということを伝える。
 それなのに、団長はマッサージを受けながら何やかやと質問をする。私は四苦八苦しながらなんとか意を伝えようとするが、どうにも話にならない。
 しかし私にとっては幸いなことが2つあった。1つは団長がベッドにうつ伏せになっていたこと、もう1つは団長の耳が遠いことだった。団長が言ったことを私は小声で床屋に伝える。日本語だったり英語だったりしたが、どっちにせよ、通じてはいない。床屋は何か言うが無論解らない。私は団長の訊いたことに対する返事を適当に作って団長に伝える。
 例えばこうだ。
団長「あんたはどこの出身かね?」
私 「Where are you from ?  どこで生まれましたか? 是・你・里?」

床屋
「△○×■」
私 「地元、南京だそうです」
団長「この仕事は長いのかい?」

私 「Have you been continuing this work long ?  この仕事をずっと続けていますか?
   長・嗎?」
床屋「○□▼◎」
私 「もう40年以上になるそうです」
団長「あんた、なかなか上手いね」
私 「You are good at your work. 你・技・好」
床屋「◇▽☆*」
私 「ありがとう、と言っています」
 この会話は当時の日記から書き写したものだが、今見ると英語もデタラメだし、中国語は、そもそも中国語になっていない。

 この日は太平天国歴史博物館など、歴史教員としては必見の場所をいくつか回った。
 そのバスの中で、C高校の今西さんという若い教員が話しかけてきた。中国ではどこに行っても街路樹が見事だが、それに気付いたかというのである。
 もちろん気付いてはいた。とくにプラタナスの太さには驚き、中国では何百年も前から都市計画が進んでいたのだろうと感心していた。
 ところが今西さんは、意外なことを言った。中国で見られるプラタナスはモミジハスズカケという雑種で、成長が早いばかりでなく雑種強勢のためどこに植えても環境に適応する力が強い。そのため新生中国で意図的に植えられたもので、まだ40~50年しか経っていないのだという。
 また日本ではプラタナスの剪定にあたって、樹幅が狭くなるように枝打ちをするが、中国、とくに南京では低い位置で芯止めをして脇枝を幅広く繁茂させる。それは気温の高い南京で日差しから市民を守るためであるというようなことを説明もしてくれた。
 へー! と驚く私に、今西さんは、プラタナス以外にどんな樹種が使われているかご存じですか、と訊く。
「そうですねぇ、ヒマラヤシーダー、柳・・・でしょうか」
 今西さんは憐れむように私を見て、約10種類ですと言うなり次々と樹木の名を挙げ始めた。私はそれを全部忘れてしまったが、万事控え目な今西さんが、こと街路樹のことになるとこうも多弁になるのかと、驚くばかりであった。
 人が何に興味を持とうと勝手だが、この人は窓から街路樹ばかり見ていたのだろうかと思い、不思議でならなかった。

 南京ではもう1カ所、本稿のようなお気楽な文章にはしづらい場所に寄った。南京市立博物館である。
 そこにはいわゆる南京大虐殺に関する資料がこれでもかというように展示されていて、通常日本の団体を連れて行くことはないという。事実、我々が南京到着時に受け取った旅程表には入っていなかった。それがなぜ急遽組み込まれたのかは判らないが、結果的には行けて良かった。
 大虐殺については事実とデマとが混同して実態がよく分からないし、展示されていた資料にも意識的な反日キャンペーンのような部分が感じられはしたが、そういうことを差し引いても日本軍が非道な殺戮をくり返したことは事実であり、戦争の狂気を伝えるには必要な展示であるに違いない。
 これらの資料は私たちが見学した10日後に完成した侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(南京大虐殺紀念館)に移されたようだが、これからも日本人観光客には是非行ってもらいたい所だ。反日イデオロギー推進の観点から建てられたもので、日本人にとってはいたたまれない場所であるが、我慢してほしい。
 ちなみにこの紀念館建設は日本社会党委員長田辺誠さんの強い勧めによるものだそうな。それでも資金不足を理由に建設を渋った中国共産党に対して、田辺さんは支持母体の総評を動かして3千万円を南京市に寄附し、南京市はそのうちの870万円を使って同館を建設したとのこと。870万円? それではあとの2130万はどうしたのか? 中国共産党関係者で分けたというからアンビリーバボーである。

 9日目はバスで揚州に移動。あちこち見学したが、その大半は先に述べたような土産物屋であった。いかにして観光客に兌換券を使わせるかが至上課題である旅遊局のプログラムなのだろう。
 いささかうんざりというところであるが、あながち中国側ばかりを責めるわけにもゆかぬ面もある。
 団員の中には女性が4人いたのだが、そのうちの小島さんと鎌田さんという女性がそういう場所が大好きで、どこの店でも必ずバスに遅れる。それも5分10分ではなく、たいていの場合は山本さんが見に行って連れて帰るのだが、いつだって両手に大きな袋をぶら下げて、満面の笑顔で戻ってくる。
 あんなに買ったら当然スーツケースは重量オーバーになるであろうから、誰かが注意もした。しかし2人は、19人で380キロまでは団体扱いでしょ、などと悪びれない。それはまあそうであるが、他の人が20キロに届かないことを前提にしたその態度は、どう考えても誉められたものではない。

 翌朝、山本さんの提案で「揚州富春茶社」というレストランに饅頭を食べに行った。
 揚州は饅頭の美味い所だそうで、とくにこの富春茶社は隋の時代の味をそのまま守っているとかで、山本さんは揚州に来ると必ずここで朝食をとるとのこと。
 日本で言う肉まんやあんまんを小さくした感じで中には蟹や海老、鶏、豚、野菜など色々入っている。確かに美味いし、小ぶりなので、何個でも食べられる。
 知らず知らず満腹になったところで、大明寺に行った。
 いわずと知れた鑑真和上の寺であり、聖武天皇の命を受けた栄叡、普照が伝戒師の派遣を鑑真に要請した寺である。日本史の授業で通り一遍のことは勉強しているが、それよりも井上靖さんの小説で鑑真渡日のいきさつについては繰り返し読んでいる。そしてこの旅行の数年前、映画化されたこの『天平の甍』を観てもいる。
 くすんだ落ち着きのある黄色で塗られた外壁の真ん中に山門があり、入ると正面に大雄宝殿、つまり本堂がある。中には金色の釈迦が鎮座し、中国人参拝者でごった返している。
 本堂右奥に、鑑真記念堂がある。奈良の唐招提寺そっくりの建物で、ここ1週間中国の寺々を見てきた目には染み入るような日本建築だ。
鑑真が船出したという古運河

 ここで揚州ガイドの譚さんが、唐招提寺に行ったことがありますか、と訊いてくる。私がぶっきら棒に「ありますよ」と答えると、何回?と重ねてきた。無意味な質問にむっとして、「何回か数えてはいませんよ。でも10回以上です」と答える。譚さんはそれに対して何も言わなかった。
 10回以上というのは嘘で、実際には3、4回しか行っていないのだが、譚さんに好感が持てずにいた私は無意識のうちに敵愾心を燃え上がらせてしまったのだ。
 そもそも揚州に来て以来、土産物屋にばかり連れて行かれるのには、どうも譚さんの意向が働いているのではないかと思っていた。
 まだ若い女性なのだが、どうしてなかなかしたたかで、我々の団長にべったりと寄り添ってご機嫌をとっている。その団長からチップを貰っているのを誰かが見たらしく、団の中での評判も決して良くはなかった。次々と回る土産物屋で袖の下を受け取っているに違いない。
 それと、これは譚さんが悪いわけではないが、我々の入るレストランはどこでも「外賓専用」であり、中国人は入れない。料理もいいのだろうが、そもそも値段が普通の人民用レストランの10倍ぐらいする。そういう所で食事をしていると、窓から中国人が覗いていたりする。それが子供だったりすると、こちらは罪悪感で食欲も低下してしまう。
 中には、同じ建物で、人民用の食堂を突き抜けて外賓用の部屋に入るようになっている所もある。通りながら見ると、下は土間で、大抵はどんぶり物1杯だけの貧しそうな食事をしている。そして外賓用の部屋はちゃんと床が張られており、テーブルには次々と大皿に盛られた、いわゆる中華料理が出てくる。大量に残して、また中国人の食事を見ながら外へ出る。
 譚さんは水玉模様の洒落たワンピースで日本人に交じって高級料理を食べている。譚さん自身は、そういう格差をどう思っているのだろう。

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