中国視察旅行の鬱念(1)


人は色々、国も色々


 拙稿『欧州視察旅行』で、私は英会話が特技だと書類に嘘を書いて視察メンバーに加わったということを書いた。
 その5年後、中国視察の話があり、今度は中国語が得意だと嘘をついて視察団に加わった。
 実は知っている中国語は「謝謝」と「再見」だけだったのだが、欧州視察のときに英語の教員がまったく英語を話せないという実態を見ていたので、私の中国語力など誰にも分りはしないだろうとタカを食ってのことである。
 黄河文明といえば歴史の教科書の最初に出てくる文明で、世界史の授業を担当している身としては、何としても現場で確かめたいものである。そもそも歴史の授業をしていると、話の内容は、そのほとんどが行ったことのない場所のことであり、会ったことのない人のことである。
「講釈師、見てきたような嘘を言い」という川柳は、まさに私のような社会科教員を辛辣に皮肉ったものと言っていい。
 だからここはひとつ、手段を選ばず視察団に潜り込まなくてはならない。
 もう一つ、この旅行の添乗員は近畿日本ツーリストの山本民雄さんだった。山本さんは『シンガポール・バンコクの裏側』にも書いたが、近ツリ千葉教育旅行支店の伝説になっている傑出した人物で、近ツリでは多くの“山本学校生”が要職についている。
 私は、その“生徒さん”たちともじっこんのお付き合いをいただいているが、酒の席での話題は専ら山本さんの悪口だ。
 なにしろ山本さんは講釈が多い。社員を前にしての毎朝の訓示はさしずめ山本さんの生き甲斐のようで、それを記録しただけで親鸞の『歎異抄』に負けない本ができそうだ。
 実務的には大変なやり手で、その業績を書き連ねたらきりがない。それに、このようなホームページなどで公務の内容に触れるのは迷惑でもあろうから、その仕事ぶりについて書くのは控える。
 だから差し障りのないところで私事の一つを書くならば、ある時私が急な用事で航空券の手配を頼んだところ、オンシーズンでほとんどの便が満席だったにも拘わらず、ちゃんと取ってくれた。もっとも取れたという知らせにやれやれと思って待っていると、航空券を出す前に、「席は尾翼の上です。体は縛ってもらいますから、落ちないと思います」などと真顔で言う。いつもの悪い癖だ。
 その山本さんが添乗となれば、中国旅行もさぞかし実のあるものになるだろう。私が何としても審査に合格しようとした大きな理由である。

 旅行に先だって何度か打ち合わせの会があったのは欧州視察のときと同じだが、幸い今回は常識的な人が多い。
 視察団の構成は短大、高校、中学校、幼稚園の教員18、それに添乗員1の合計19名。
 この旅行が行われたのは1985年であるが、当時、中国旅行は団体でなければ受け入れられず、しかも旅程はすべて中国側が管理し、ホテルや見学場所は現地についてから中国側が指示するというのが決まりであった。
 それなのに、ある幼稚園の教員から、日程の中に幼稚園見学を入れるよう要望があった。話を聞いていないのだ。それに18名中16名は幼稚園に関係のない人間なのだから、そういう要望はどうかと思う。
 山本さんも困って、一応中国側に希望を出してみますと言った。そして気まずい空気の中で、ほかに何かご希望のある先生はいらっしゃいますか、と形式的に訊いた。
 私はわざとらしく、「私が個人的に興味のある所を希望した場合、そこに興味のない人も全員ついて行かなければならないのですか」と質問した。山本さんが「その通りです。ですからなるべき皆さんに共通したご希望を出していただけるとありがたいのですが」と答えた。
 これだけの会話があれば、その後に個人的な希望は出せないと思うのが普通だが、何のためらいもなく手を挙げる人がいて、「私の知人が中国で働いているので、その新聞社を見学したい」と言う。
 さすがに山本さんがそれは無理だと断ったが、常識的な人が多いとはいえ、やはりどこにも馬鹿はいるものだ。

 初日は北京に着くだけで、見学等の予定はない。
 北京空港での入国審査について、山本さんからは事前に厳しい注意がされていた。曰く、この視察団の団番号である「8-852」を常に頭に入れておき、尋ねられたら速やかに答えること。イミグレーション、税関とも必ず番号順に並ぶこと。
 この番号というのは団員一人一人につけられたもので、ちなみに私は12番、すなわち「8-852-12」というのが旅行中私につきまとう数字ということになる。
 また山本さんは、検疫書類には「異常なし」とだけ書き、頭痛腹痛などは決して届け出ないこと、とも言った。人道にもとる指示だと思うが、中国ではへたに腹痛などと書くと、それだけで4、5時間はすぐにかかってしまうからというのが理由である。
 かくして軍隊にも勝る規律正しい18名が、整然と番号順に並び、全員が体調万全と偽って入国審査を受け、北京に入った。
 窓に「8-852」と書かれたバスが待っていて、車中でガイドの史亜平さんが流暢な日本語で熱烈歓迎というような挨拶をした。本心かどうかは判らないが、ともあれ中国の旅は始まった。車内にはもう1人、王さんという人がいた。史さんは北京だけのガイド、王さんは全行程を管理する「全線随行」ということであった。
 空港から北京市内に向かう。13キロにわたって直線が続くという道にまず驚く。周りはのどかな田園地帯で、昔日本にもあった荷馬車が行き来する風景は心に沁みる。
 北京市内に入ると、様子は一変。あちこちの民家で修復工事が行われている。レンガの積み直しのようだ。見たところ、その家の住人がやっているようで、日本でいう大工さんのような雰囲気の人は見かけない。
 ホテルに着く前に「北京烤鴨店」というたいそうなレストランで夕食をとる。いわゆる北京ダックがメインで、料理人が飴色に焼いたアヒルを盆に載せて客に見せる。客がホーとかワーとか言うと、にんまりと笑ってそのまま厨房に持ち帰ってしまい、しばらくして削ぎ切りにした皮の部分だけを持ってくる。
 私は北京ダックなどという高価なものは食べたことがないので、皮以外の部分はどうするんですかと同席の人に訊いた。さあどうするんですかねえ、と言う人もいたが、原さんという団員が、皮以外は全部捨てるんですよ、と言ってなにやら解説をした。内容は忘れたが、皮が美味しいのであって、肉には価値がないのだというようなことだったと思う。
 へえ!と思った私は後日、横浜の中華料理店で料理人に皮以外は捨てるのだそうですね、と愛想のつもりで言った。料理人は憤慨した様子で、とんでもない、肉も骨も頭も足も全部料理して出します、すべての部位を無駄なく楽しむのが中国料理です、と強い調子で答えた。
 どうも自信たっぷりに解説する人の話は鵜呑みにしない方が良さそうだ。
 ところで肝心のその味だが、初めて食べる私はとくに美味いとも思わなかった。もし誰かが「北京ダックか札幌ラーメンか、どちらか好きな方をおごってやる」と言ったら、私は迷わずラーメンを選ぶだろう。

 2日目、7月30日。バスで出発。ガタガタ道をかなりのスピードで走る。曲るときは体が左右に振られる。
 まずは万里の長城見学。
 万里の長城といえば月から見える唯一の建造物と言われ、秦の始皇帝の名とともに子供でも知らぬ者はない。これを見ずして中国史は語れないという必見の遺跡だ。
 高さ8メートル余り、厚さ6メートル強。焼き煉瓦で覆われ、頂部に凸状の防護壁を設けた壮大な城壁で、約120メートル間隔で見張り台も設けられている。
 とにかくたいしたシロモノで、「ナポリを見て死ね」という言葉は「万里の長城を見て・・・」と言い換えた方がいいだろうと思う。
 だが、実はここ八達嶺で一般観光客に公開されているのは秦の始皇帝の築いた長城ではない。
 始皇帝の長城はここよりずっと北にあり、テレビなどで見ると、高さも幅もとても城壁とは思えないちゃちなものだ。しかもその大半は、それ以前の燕や趙などが築いたものを修復して使っている。
 もっとも、それで始皇帝の価値が下がるものではなく、秦の時代にはそれで十分だった。なぜならば、秦にとっての脅威は北の匈奴であり、匈奴は遊牧民族である。
 昔も今も戦争継続の最大の課題は糧食であり、兵士たちが何日も何カ月も遠征するには、その間の食料をどう確保するかという大きな問題がある。いかに屈強の軍隊でも食う物がなければ1日も戦えない。
 保存食も携帯食もない時代、匈奴は羊の群れを連れて遠征し、その羊をつぶして食べながら進軍していた。だから、途中にその羊が越えられない障壁さえあれば、軍隊はそれ以上先に進めないわけで、城壁のごとき巨大な防御施設は必要ないのである。
 というわけで、現在観光客が押し掛けている万里の長城は、明の時代に築かれたもの。これを眺めながら始皇帝は偉大だ、などと感嘆するのは見当違いということになる。
 それに、月から見える唯一の建造物というのはいかにもなるほどと思わせる言葉だが、考えてみれば馬鹿も休み休み言えという話だ。
 城壁の長さはともかく、幅は6.5メートルしかない。離れれば離れるほどそれは細く見え、やがて髪の毛より細くなり、ついには見えなくなる。巨大なテレビ塔などが100キロも離れた所からは見えなくなるのと同じだ。
 月までは38万キロもある。どうして幅6.5メートルの“線”が見えるのだ。だいたい月の直径は3500キロもあるのに我々の目には、持った手をいっぱいに伸ばして見た10円玉ぐらいにしか見えない。6.5メートルでは何をかいわんやである。


 駐車場への途中、有料トイレがあり、1角(約13円)を払って入る。なんということのないトイレだが、無料の所に入るには相当な勇気がいる。
 なにしろ大便をするのに個室というものがない。床に並んだ穴の上にしゃがんでする。
 見るとみな壁に背を向けて、つまり通路側を向いてしている。まあ、その方が直接尻が見えなくていいのだが、目の前を人が往来するし、通路の反対側には小便用の溝があって入れ替わり立ち替わり用を足しているのだから、なんとも落ち着かない。
 大便中の人は目の前に立つ人の脚の間から小便の筋が見えるだろうし、小便中の人は背中に大便中の人の視線を感じながらということになる。お互いの気まずさは尋常ではない。
 大便所に仕切りとドアをつけるのにどれほどの費用がかかるものでもなかろうに、どういうわけでそんな仕様が許されているのか理解できない。
 もっとも、厳重な囲いの中でなければ大便ができないという感覚が日本人ほど強い民族は、世界的に見てそう多くはないのかも知れない。
 欧米ではホテルでも一般家庭でも便所、浴室、洗面所が同じ空間になっているのが普通だし、駅や空港のトイレは仕切りもドアも上下が大きく開いていたりする。国によっては豚小屋の上が便所になっていて、囲いは隙間だらけの竹や小枝といった所もある。
 そもそもローマ帝国の遺跡など見ると、穴の並んだベンチのようなものがあり、それが公衆便所だったという。しゃがむか腰掛けるかの違いだけで、まさに今の中国と同じだ。
 ちなみに私の同僚の伊藤さんという人は中国旅行中に下痢をして、我慢し切れず穴の並んだ公衆便所で用を足したそうだ。初めは死ぬほど屈辱的だったらしいが、いざしゃがんでみるとすぐに慣れ、隣で用を足している人と挨拶などしたという。
 いくら慣れたからといって、なにもわざわざ用便中の人に挨拶をすることもあるまいに。これはやはり伊藤さんの感覚が日本人ばなれしているとしか考えられない。

 3日目はまず天安門広場へ。
 南北880メートル、東西500メートルにわたる広場で、100万人の集会ができるという。もっともこの計算は数字上のもので、実際に100万人が集まったら、全員直立不動のまま身動きもできないということになるだろう。まあ、中国では白髪三千丈という言葉があるくらいで、数字の誇張に目くじらを立てていたらきりがない。
 とはいえ、とてつもない広さであることは間違いなく、各種の凧が揚がっているのがごく自然に見える。
 敷石は花崗岩だそうだが、その一つ一つに番号が振ってある。整列のための目印だそうだ。所々鉄板になっているのは、下が溝になっており、大規模集会のときに外してトイレにするのだそうな。なるほど100万人分のトイレを常設しておくわけにはいくまいから、実務的発想とは言える。それにしても本当にそんな集会を開くことがあるのだろうか。
 広場を北に抜けると天安門があり、正面に初代国家主席毛沢東の肖像が掲げられている。その先に午門があり、ここから故宮に入る。
 故宮は明・清時代の王宮で、紫禁城とも呼ばれ、現在は博物館になっている。敷地面積72万平方メートルと言われてもピンとこないが、100万人集まれるという天安門広場が44万平方メートルだから、まあ、途方もない広さだということは判る。
 もちろんその中をくまなく見学するなどということは不可能で、見学者のほとんどは午門から入って太和門、太和殿、乾清宮、御花園と直線状に辿り、神武門から外へ出る。
 私たちも大体そんな具合に歩いたが、なにせ広い上に人が多いので、山本さんの姿をすぐに見失い、適当に人の流れていく方向に歩く。
 それでも主要な建物の近くまで行くと、不思議と階段の上などに山本さんがいて手を挙げたりしている。山本さんは団員が全部通過するまでそこに立っているのだろうが、いつの間にか次の建物まで先回りしていて、また案山子のように立っている。中国には何回となく来ているそうで、頼りになる添乗員だ。
 神武門を出て、裏山ともいうべき景山に登る。そこは景山公園となっていて、紫禁城全体が見渡せる。改めてその広さに驚く。

  そのあと、「東聴飯庁」という所で昼食。味も量も申し分ないが、ビールが冷えていない。言えば冷たいビールも出すということなので当然それを注文したのだが、史さんの通訳によれば今日の分はもう出てしまって、ないとのこと。
 ウエイトレスは片手に瓶、片手にグラスを持って来る。各グラスに指を突っ込んで3、4個をまとめて持ち、テーブルにガチャッと置いて去ってゆく。私は気付かなかったが、誰かがグラスに埃がついていると言って、フッと吹いていた。
 この旅行中、テーブルにつくとまず「冷たいビール」と注文するのが常であったが、それでも飲めたのはほんの2、3回だけだった。それもすぐになくなって、2杯目からは生温かいものを飲むという具合であった。
 電力事情云々というより、“ビールをわざわざ冷やして飲む変な客”のために少しだけ冷やしてあるということらしかった。
 だから「メイヨウ(ありません)」と言うときのウエイトレスの態度は極めて横柄で、申し訳ないという気持はみじんもないことが判る。
 食後、中国歴史博物館を見学。北京原人関係の展示に見入っていると、T女子高校の浅井さんが話しかけてきた。私より6、7歳若いと思うが、謙遜な人柄で好感がもてる。
「北京原人の頭蓋骨化石は日本の皇居の地下室にあるという話を聞きましたけど本当ですか?」
 諸説あって本当のところは分らないのだが、皇居の地下室云々という話は最も疑わしいもので、言ってみれば徳川埋蔵金の類であろう。
 私は分らないと前置きした上で、台湾海峡に沈んでいるという説が一番信憑性が高いということ、その理由をかいつまんで話した。
 ただそれだけのことだが、浅井さんは目から鱗が落ちた気分だと言って喜んでくれた。私は一応歴史の教員であるから授業の下調べで多少の本を読んでいるだけのこと、つまり単なる受け売りであるから、あまり納得されると却って恥入る。
 浅井さんはそれを機に私と親しくしてくれるようになり、今でも欠かさず年賀状をくれるし、仕事の関係で会ったりすると礼を尽くして私の相手をしてくれる。
 学校の教員には、誰でも知っているようなことをさも自分しか知らないことのように思い込んで得々と語りたがる鼻持ちならぬ輩が多い。5年前の欧州視察のときにはそういうペダンティストが多くて辟易したし、今回の中国視察でも何人かはそういう手合いがいた。
 それだけに浅井さんのような実直な人を見るとほっとする。

 そのあと、どういうわけかしばらくバスが来ないというので、一人でもう一度天安門広場に行く。
 ビールを冷やさない中国人ではあるが、冷たいものが嫌いというわけではないらしく、どこに行ってもアイスキャンデーを売っていて、大のおとなが我先に買っている。山本さんから絶対に買ってはいけないと念を押されていたシロモノだ。
 必ず腹を壊します、赤痢になる場合もあります、といささか時代がかった注意ではあったが、下痢ぐらいはするかも知れないので、一応注意は守ることにした。

大人気の写真屋に群がる人々


 広場では、あちこちに写真屋がいて記念写真を
撮っている。大変な人気で、どこも順番待ちの人たちが群れている。「群れている」というのは変な言い方で、日本なら「並んでいる」というところだが、中国では並ぶという習慣がない。
 毛主席紀念堂(記念堂ではない)だけはロープが張られて警察官が強制的に並ばせているが、その他では空港でもバスでも押し合いへし合いで、強い者が先になる。だからどこでもののしり合いをしており、女性でもその剣幕は大変なものだ。

 私も撮ってもらおうと頑張って、ようやく一番前まで出た。日本語で1枚撮ってくれと言ったが通じないので英語で言い、それも通じないので指を1本立てて10元札を見せた。写真屋は不機嫌そうに何か言って、次の客の応対を始めてしまった。


肩身の狭い韓国旅行(2) 中国視察旅行の鬱念(2)
     
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