肩身の狭い韓国旅行(1)


日本人男性を見る目は?


 1985年の春休み。職場の同僚7人でソウルに行った。
 はじめ、天橋立を含む2泊3日の旅行を考えて地元のY旅行社に相談に行ったところ、9万円という見積もりが出てきた。高いなと思っていると、ソウル2泊3日なら8万円で手配できるという。
 今だったら、大手旅行社でもその3分の1くらいでツアーを組んでいるから、8万円ではかなり高かったということになるが、それでも当時としては信じられない安さであった。
 それならソウルにしようというわけで、すぐに話はまとまった。
 何日かして、Y社のMさんが行程案を持ってきた。時間や見学地については概ね良くできていたが、ホテルが全部シングルになっている。どういう訳かと尋ねると、韓国旅行はシングルと相場が決まっているとのこと。
 勿論、その意味は判る。「シンガポール・バンコクの裏側(1)」にも書いたが、当時は日本人男性の東南アジアにおける買春ツアーが世界的に有名になっており、日本人はセックス・アニマルと呼ばれていた。とりわけ韓国では妓生(キーセン)パーティといって娼婦を呼んで宴会を開き、そのあと1組ずつホテルに帰るというのが常識(?)になっており、私も韓国に20回行ったという人からそのスバラシさを何度も聞かされていた。
 してみると、行程表に「夕食」とあるのがそのパーティなのであろう。
 ではあろうが、いやしくも我々は教員であり、そのような旅行をする訳にはゆかぬ。
 と言うと、Mさんは「学校の先生方も結構行っていますよ」などとけしからぬことを言う。事実私もある教員からその体験談をたっぷり聞かされてはいる。それでも自分がそうなるのは嫌だし、どうしてもと言うならこの旅行はやめると言い張った。
 Mさんは渋々、ツインに変えてもらうよう頼んでみます、と言って帰った。

 さて出発当日、成田空港ではウォンの両替ができないことが判った。ソウルに着いてから替えればいいことだが、5か月前に日本の紙幣が全面的に切り替わり、私のポケットには新旧の札が混じっていた。ちょっと心配になって、念のためUS$を少しだけ買っておく。
 出国審査を終えて免税店の前を通り搭乗待合室へ。ここで誰かが、遠藤さんがいない、と言い出した。出国審査を終えたところでは一緒にいた筈なので、おおかたトイレにでも行っているのだろうと言い合っているところに、遠藤さんが現れた。免税店でダンヒルのライターを買ってきたという。3万数千円とのこと。
 海外旅行に行くと、帰りの空港で免税品を買うという人は結構いるが、日本の空港で出発する前に大金を使う人は珍しい。そもそもタバコに火をつけるのになぜ3万円のライターが必要なのか、私にはどうしても理解できない。

 飛行機は大韓航空のボーイングA300。搭乗口でチマ・チョゴリを着たスチュワーデスの出迎えがある。今では見られない光景だが、客にしてみれば航空会社のカラーが感じられて、悪い気分ではない。
 そういえば、日本航空でも昔は離陸後しばらくするとスチュワーデスが着物姿で現れたりしたものだが、いつの間にかなくなってしまった。今はどこの航空会社も同じような制服ばかりになり、“お国ぶり”も感じられない。どうも海外旅行の楽しみが一つ削られてしまったように思う。
 その点、シンガポール航空のスチュワーデスは今でも民俗衣装のサロンケバヤを着ており、それを楽しみにシンガポール航空を選ぶ客が多いという。もっとも、体中30か所も採寸して、ボディラインを出せるだけ出したようなその衣装は、女性客には評判が悪いらしい。まあ、私は大好きだが。
 いっそ、エジプト航空はベリーダンスの衣装、ハワイアン航空はフラダンスの腰みの、イベリア航空はフラメンコの衣装でサービスというのはどうであろう。日本は?・・・花魁の姿などお勧めだ。
 さて大韓航空。機内放送は韓国語、日本語、英語の順。それだけ日本人が多いということなのだろうが、その多くが先述の男性団体客であることを思うと、どうも機内の居心地が悪い。
 スチュワーデスがコーヒーを持って回ってくる。「コピ?」「コピ?」と言うのがおかしいが、日本人が普通に「コーヒー」と言うよりは英語に近いらしい。
 注ぎ終ったところで、私は「カムサムニダ」と言ってみた。この旅行のために泥縄式に韓国語を勉強してきたから、満を持してのことである。
「チョンマネヨ」
という、テキスト通りの返事が返ってきて感激。
 金浦空港に着くと、機内に「アリラン」が流れ、韓国語の挨拶がある。チンプンカンプンだが、最後に「アンニョンヒカシプシオ」という言葉だけが聞き取れ、またしても感激。
 両替所には日本人が溢れており、日本円から直接替えることができた。私はわざと新旧の日本紙幣を混ぜて出してみたが、何の反応もなく、当り前のようにウォンが出てきた。1円が3.3ウォンほどで、今から思うとウォンも高かった。というより、1ドルが270円の時代であったから、円が安かったのだとも言える。
 ロビーに出ると、現地S旅行社の朴さんという女性が待っている。
 いきなり、Y旅行社からホテルの部屋をツインに変えてくれという連絡がきていますが、それでいいんですか、と訊かれた。その通りだと答えると、ツインというのは2人が同じ部屋になるということですよ、と当り前のことを言う。そして、それではまずいでしょう、既に妓生パーティも手配してありますよ、そもそも旅行費用の中にはパーティの分も含まれているのですよ、としつこい。その上同行の同僚たちにまで「あなた達はそれで本当にいいんですか」と念を押す始末。
 私たちは、その妓生パーティはキャンセルして、その費用でどこか韓国料理の夕食をセットしてくれと頼んだ。パーティ代金には妓生7人と我々、計14人分の飲食と妓生を一晩部屋に泊める費用が含まれているので、かなりの金額になる。その分を我々7人の夕食だけに使うとなると多過ぎると言って、朴さんはなかなかOKしない。
 すったもんだの挙句、やっとコリアハウスでの歌舞鑑賞と宮廷料理に振り替えることで話はついたが、朴さんは明らかに不機嫌であった。おそらく妓生側から受け取る筈だったマージンがパーになったということなのであろう。初めての韓国旅行は入国早々気まずい雰囲気で始まることになった。

 大き目のワゴン車に乗り込んで、早速市内観光へ。乗るなり土産物屋のリーフレットが配られるが、これはまあよくあることで、別に朴さんを咎めるようなことでもない。
 市内まではハイウエイを約25キロ。車中、朴さんから韓国は長い歴史をもち、本来なら優れた文化遺産が数多く残っている筈なのだが、豊臣秀吉の朝鮮出兵によりその多くが破壊された、という話をくどくどと聞かされる。まるで私たちのせいだと言わんばかりの口調であったが、私は秀吉に会ったこともなく、400年も前のことを責められてもあまり素直にはなれない。どうもこの旅行はあまり愉快なものにはなりそうな気がしない。
 国会議事堂を右に眺めながら漢江(ハンガン)を渡る。世宗文化会館の前を通り、景福宮(キョンボックン)へ。正門である光化門(クァンファムン)の前に出るが、そこからは入らず、建春門から中へ。すぐ右に開城の敬天寺から移したという十層大理石塔がある。高麗時代の物で、国宝になっているという。ツーリスト・フォト・サービスとかいう写真屋がいて、朴さんの会社と契約関係にあるらしく、当然のごとく我々を並ばせて写真を撮る。小さなグループなので買わないと悪いような気がして買ったが、値段は忘れてしまった。
 景福宮は
朝鮮時代の王宮で、王が生活をしながら臣下と政治の議論を交わしていた所だと説明がある。宮内は韓国を代表する名園だそうで、慶会楼(キョンフェル)という今でいう迎賓館や、香遠亭(ヒャンウォンジョン)という王と臣下との親睦を深める場所であった瀟洒な建物が池の水に映えている。

 
 景福宮の香遠亭

 園内には葉を落とした木々がほどよい間隔で植えられており、その枝から枝へ、かささぎが飛び交っている。大都会の真ん中にあるとは思えぬ、静かな空間だ。朴さんによれば12万坪を超えるという。もともとは殿閣が200棟以上あったそうだが、壬申倭乱で秀吉軍によってその殆どが焼き払われ、1800年代に再建されたものの、日本による統治によってまた破壊され、現存する建物は殆どないとのこと。このあたりの事情は朴さんからいやになるほど繰り返し説明された。
 ちなみに日本では秀吉の朝鮮出兵を文禄の“役”、慶長の“役”と、聞きようによっては人ごとのように聞こえる言い方をしているが、韓国では憎しみを込めて壬申“倭乱”、丁酉“倭乱”と呼んでいる。
 無論私も一応高校生に日本史を教えている身であるから、小西行長や加藤清正らによる半島侵攻を知らない訳ではない。しかしそれは先述したとおり400年も前の話であり、一応加害国の人間として気まずさはあるものの、朴さんからあまりに繰り返し言われると、「俺のせいじゃねえよ」という気にもなってくる。

 あえて言うならば、日本軍は半島での進軍中にも、武力による攻撃よりも交渉による決着を優先してずいぶんと努力をしたようである。しかし、明と朝鮮の指揮官がごとごとくそれを拒否し、多くの血が流されたらしい。また当時の支配層に抵抗する朝鮮民衆の中には密かに日本軍に通じて侵攻の手助けをする勢力もあった。建造物の破壊についても、日本軍の入城前に朝鮮民衆の略奪と放火によって消失したものも多いと聞く。
 朴さんの説明では、そういうことについては一切触れられず、専ら秀吉が、秀吉が、という繰り返しのみであった。
 誤解を避けるために付言するが、私は秀吉の朝鮮出兵を擁護するつもりは全くない。日本軍による殺りくと破壊が行われたのは事実であるし、小西行長と加藤清正の手柄争いのためにそれが必要以上に拡大されたという側面もある。さらに近代の日本による統治では、朝鮮の文化を意図的に抹殺する政策が取られ、多くの文化財が破壊、焼却された。
 それらを思うと、朴さんの説明に力が入るのも分からない訳ではない。

 正殿である勤政殿(クンジョンジョン)に回る。円柱の並ぶ回廊を持ち、どことなく奈良の法隆寺を彷彿とさせる。石畳のあちこちに石の杭が立っている。朴さんに訊くと、朝儀の際、参列した百官の位置を定めるための標識だとのこと。
 高校生のアルバイトであろうか。王朝時代の衣装を着た女の子が数人立っており、気のない態度で「記念写真を撮りませんか」と日本語で誘いかけてくる。その子たちから見れば、また日本のスケベ野郎たちが来た、というように見えているのだろうから、さっさと逃げようとしたが、佐山さんが捉まった。
 佐山さんは穏やかな性格で、偉ぶらず、出しゃばらず、まことに良い人なのだが、こういうときにはそれが災いして、いいカモになる。2人の女の子に挟まれ、笑顔をつくるでもなく、ただ当惑したような顔で突っ立って、写真を撮られている。女の子たちはそれが仕事らしく、一応ポーズをとってはいるが、どう見てもふてくされたような態度で、あれでは出来上がった写真が思いやられる。私たちは佐山さんを見殺しにして、そのスキにそそくさとその場を離れた。

 国王が政り事に思いを巡らしたという思政殿(サジョンジョン)、亀の背中に石碑の載った中国式の「浄土寺弘法国師実相塔」などを見て外へ。
 ひとまずホテルに入る。ここでも朴さんから本当に相部屋でいいのかとしつこく訊かれ、やっと部屋を変えてもらう。
 ついに諦めた朴さんは、妓生パーティのキャンセルと宮廷料理の手配をするということで、いったん会社に帰ると言って出て行った。私たちは荷物を置いて街へ。
 すれ違った男が無言でカードをくれる。とっさのことで訳も判らずに受け取ったが、どうやら地下鉄の路線図らしい。すべてハングルでまったく判らないが、裏を見るとサングラスの男と派手なドレスの女が写真になっており、9800と数字が書いてある。いかがわしい場所の広告かも知れない。
 
中央郵便局に行き、記念切手を買う。そのための韓国語をカタカナで書いて行ったので、それを読み上げたがまるで通じない。やむなく英語に切り替えたが、それも通じない。日本語で言ったら通じた。どういうことだろう。
 街を歩いていると、一目で日本人と判る男が韓国人らしい女性と二人連れで歩いているのにやたら出合う。たいてはパンチパーマで、絹地らしい派手なシャツに鰐皮のベルト、白いエナメル靴という格好である。おそらく妓生と一晩過ごしたあと、買い物をねだられて歩いているのであろう。
 勘弁してもらいたい光景だが、どうしようもない。目を合せないようにするぐらいがせいぜいだ。
 気分直しの意味もあり、折角韓国に来たのだから韓国料理を食べようという伊藤さんの提案で、巨亀荘という料理屋に入る。

 
 巨亀荘のマッチ
 私は料理の名前というものを全く知らないので、伊藤さんの勧めるままに何だか判らないものを頼んだ。 井上さんが皿のものをどんぶりのご飯の上にあけ、それをスプーンでぐちゃぐちゃに混ぜ始めたので驚いたが、それが韓国流の食べ方なのだという。なんだか行儀が悪いように思ったが、それが文化とあれば、善し悪しを云々するものでもない。
 私はこの旅行の少し前に、ある韓国人の講演を聴きに行き、その人の次のような話にいたく感銘を受けた。
 曰く、日本人は韓国で生水を飲むと腹を壊すとか韓国は水が悪いとか言うけれど、韓国人が日本で生水を飲むと腹を壊すということを知らない。どこの水かということではなく、慣れた水かどうかが問題なのだ。
 また曰く、韓国人はお客を接待するとき、ご飯を山盛りにして出す。それを見て日本人は「てんこ盛り」と言ってけなすが、韓国人は日本人が茶碗に少しばかり入れたご飯を出すのを見て、「けち臭い」と感じて食べるのを遠慮してしまう。
 その話を聞いて私は、“違い”を“優劣”で見がちな自分を反省したものだった。
 だから、ご飯と具をぐちゃぐちゃに混ぜて食べることが韓国の文化であるなら、自分もそうして食べてみようと思い、井上さんに「もっと、もっと」と言われながら、混ぜに混ぜた。意外にもこれが滅法美味く、いい勉強になった。



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