欧州視察旅行(2)


ロンドンで
 ロンドン滞在中、幸いにして雨は一度も降らなかった。
 旅行前の打ち合わせ会で、団長から強く言われていたことの一つに、ロンドンに折り畳み傘を持って行ってはならぬ、ということがあった。イギリスでは長い傘を持って歩くのが男性のたしなみであって、折り畳み傘など持って歩いては、日本人の品位を疑われるというのである。
 そんなバナナ! 私もロンドンは行ったことがなかったが、明らかに団長はイギリス紳士がステッキを持ち歩いている昔の写真かなにかを記憶していて、傘も曲がった柄を腕にかけて歩くと思い込んでいる。
 馬鹿々々しくて訊き返す気にもならず、勿論折り畳み傘を持って行った。もし雨が降ってそれを使った場合には、団長からきつく叱られるのは必至であった。

 ヒースロー空港には、日本人の女性ガイドが迎えに来ていた。イギリス人と結婚してロンドンに住んでいる由で、自分のことはミセス・ハリスと名乗っていたが、かなり気位が高く、日本人を低く見ているようなところがある。
 誰かがご主人のお仕事は何ですか、と訊いたのに対し、「ブリティッシュミュージアムです」と一言。それでは返事にならない。別の団員が、ブリティッシュミュージアムで何をしているのですか、と重ねて訊いたが、それに対する返事はまたしても「ブリティッシュミュージアムです」というものだった。
 この日は11月の第2日曜日で、第一次世界大戦の終結に由来する記念日になっており、街中で多くのパレードが行われている。救世軍の行進もあり、寄付を集めながら歩いている。
 チューダー王朝風の衣装を着た一団が整列する前を、白馬の指揮官を先頭にフロックコートの軍楽隊が行進していたが、これは記念日とは関係なく、たまたま前日就任したロンドン市長を讃えるパレードが重なったのだということであった。
 リージェントストリートの近くでまた“お買い物タイム”があったので、例によって抜け出し、公園のベンチでぼんやりしていると、みすぼらしい男が声をかけてきた。
 私の職業を訊くので、教員だと答えると、アメリカの学校か、などとトンチンカンなことを言う。いや日本だと答えると、ケモノ(着物)はいくらぐらいするか と訊く。1,000ポンド以上すると答えると 目を剥いて、金持ちでなければレディになれないなと笑う。
 あれこれ雑談をしている中で、とても英語がうまいがどのくらいロンドンに住んでいるのかと訊かれた。
 今日あなたの国に着いたばかりだと言うと、私の国ではない、私はスコットランド人だ、仕事は船乗りで、リバプールまで来て汽車で帰る予定だったが、2人の男にナイフで脅され、有り金を全部とられた、もう2日も何も食べていない、もしできたら食事代をいくらか援助して貰えないか、といかにも哀れっぽく言う。
 これはやられたと思った。そもそも私の英語が上手いと見え透いたお世辞を言われた段階で、これは怪しいと気づくべきであった。が、成り行きがこうなっては仕方がないと思い、1ポンド(約 510円)渡す。
 あろうことか、男は身をよじるようにして私の顔を見つめ、「プリーズ」と悲しげな声を出す。もう1ポンド渡すと、私の手を両手で握り、くどくどと礼を言って消えた。

 大英博物館見学。世界に冠たる博物館で、その収蔵品の質と量は比類がない。
 私はかねてより古代エジプト文明に惹かれ、勤務先の学校でも「古代エジプト研究」などという講座を開いていたくらいであるから、ここでも団を離れてエジプトコーナーに直行した。
 日本でも毎年のようにエジプト展が開催され、世界の有名博物館所蔵の遺物が展示される。私も欠かさず見学しているが、押し合いへし合いしながら、立ち止ることも許されない。目玉としてミイラ棺、マスク、ファラオ像などが1点、あとは小物やパピルス文書などが、いくつか並べられているというのが普通である。
 それがここでは、ミイラ棺だけでもズラリ、ミイラそのものがズラリ、その他石膏、小物、文書類がズラリと、エジプト関係だけでも1日ではとても見きれない。
 ツアーの悲しさでバスの時間が決まっているから、エジプト関係の展示に未練を残しつつメソポタミア、ギリシャのコーナーを駆け足で回り、大英博物館をあとにする。
 バスに乗ってしばし余韻に浸りながら、これじゃあ上野の国立博物館は逆立ちしても敵わないな、と思う。
 しかし、それは日本の博物館がダメだということではない。
 そもそも、大英博物館の膨大な収蔵品の多くは、イギリスの文物ではない。乱暴に言えば、大英帝国が武力で世界中を荒らし回り戦利品として持ち帰った物、あるいは大英帝国への畏怖から献上された弱小国の文物が今、大英博物館に世界中の人々を引きつけているのである。その証拠に今、大英博物館はその収蔵品を返せとあちこちから厳しく責められている。
 大英博物館に限らず、例えばフランスのルーブル美術館などもそうだが、地球上のあちこちに植民地を持つ国の博物館は、外国から持ち帰った大量の文物を“秘宝”などと称して展示している。
 そればかりではない。先進諸国の多くはいまだに○○領という植民地を持ち、それを自国の都合の良いように使っている。フランスなどは遠く離れたポリネシアの島を領地として、そこで核実験をやっている。
 それに比べれば日本は、一時期朝鮮半島を植民地化した歴史の負い目はあるにせよ、戦利品で博物館を賑わせるということがない。上野の国立博物館が諸外国の有名博物館に比して地味なのは、むしろ自慢してよいことなのかも知れぬ。

 夕食が終ってから遊びに出ようとすると、ロビーでS高校のMさんと出くわす。Mさんも遊びに行こうとしていたようで、それなら一緒に行きましょうということになり、とりあえず、地下鉄に乗る。駅はものすごく深い地下にあり、エレベーターやらせん階段を使って降りて行く。
 
 地下鉄コンコースで

 路線図を見ているとピカデリーという駅名があったので、有名なピカデリーサーカスも一見の価値があるだろうと行ってみた。
 繁華街を歩いているとソーホーに出る。映画館やエスニック料理店や、その他多種多様な店がひしめく、何やら怪しげな街である。
 ゲイのショーではないかと思われる看板がかかった小屋がある。Mさんと、話のタネに入ってみようかと言いながら、やはり入るのをためらっていると、そこには夫婦と思しき男女が明るい態度で次々と入って行く。
 どのカップルも紳士淑女といった身なりであり、これなら存外健全なショーであろうと思われたから、我々も気が楽になり、入ってみた。
 中は階段状の客席になっており、前方にさして大きくもないステージがある。
 折しも数名の女性が踊っているところであったが、それがたちまち裸になってしまった。ハイヒールを履いている以外は一糸まとわぬ正真正銘の裸で、誰もがダイナミックな凹凸を備えたグラマーな体をしている。
 それはいいのだが、次の出し物がいけない。マッチョな男が数名出てきて、これも裸になる。言い訳のように腰に細い紐を1本巻いているだけで、あとは布切れ1枚つけてはいない。
 いかにハンサムで立派な体躯をしていても、男の性器というものはなんとも正視に堪えないグロテスクなもので、思わず目をそらす。女性の体を完璧な美しさに造り給うた神が、なにゆえ男の性器だけかくも醜悪な形にデザインしたのだろう。
 ところが周りを見ると、皆じつに楽しげで、中年カップルたちも身を乗り出して見ている。男だけ、女だけというグループも沢山おり、ステージに声援を送ったりしている。
 私たちはその時点でもうご馳走様という気分になり、早々に出てしまった。
 もう少しマシな所はないかと歩いていると、洒落た構えのパブがあったので、気分直しに飲むことにした。店内では、人品卑しからざる紳士たちが談笑しながらビールを飲んでいる。
 立ったまま飲むのが粋なのだということは聞いていたので、私たちもカウンターでビールを頼んだ。
 銘柄を訊かれたが、イギリスのビールなど知らない。といって、サントリーとかアサヒなどと言ったのではサマにならないであろうから、アイルランドの有名なビール「ギネス」と一言。これはクセがあり、慣れるまでは飲みづらい。しかしそれしか知らないので、我慢して飲み干し、見栄を張ってもう1杯。
 いちいち現金で払うのが、日本人の感覚でいうと粋でないが、それがパブのルールとあれば仕方がない。
 ただ飲んでいるのも味気ないので、近くの紳士と雑談をしているうちに、別のグループのダーツに誘われた。ダーツのルールなどまったく知らないが、これも見栄を張って仲間入り。
 私の番になり、渡された3本の矢を投げると、いったいどういう弾みか判らぬが、3本とも的のど真ん中に重なるように刺さった。
 紳士たちが歓声を上げ、私は「これが日本人だ」というように鷹揚な笑顔を振りまいたが、あとでMさんに聞いたところによれば、ダーツには狙い所というものがあり、真ん中に当たるということにはとりたてて価値がないのだということであった。
 それにしても、西洋人はどうして酒を飲むときにつまみというものを要しないのだろう。
 私は後年仕事でオーストラリアとニュージーランドに足繁く行くことになるのだが、ともにイギリス連邦の国とあって、パブと呼ばれる店が沢山ある。いきおいそういう所で飲むことが多いわけだが、いつもつまみで苦労する。
 店内で聞いても何もない。たまにポテトチップスぐらいが置いてある店もあるが、それではつまみにならぬ。仕方がないので、近くのガソリンスタンドあたりでチーズクラッカーなど買ってくる。つまみというにはあまりにも味気ないが、何もないよりはマシだと我慢して食べる。
 現地の人たちは奇異の目で見ているが、ビールやウイスキーだけを延々と飲んでいる方がよっぽど気が知れぬ。

 翌日、チャーターハウス・スクールという高校を訪問する。イギリス屈指の進学校だということであったが、生徒のレベルは様々であるように見えた。
 教務主任からカリキュラムの説明があり、そのあと日英の教育比較を交えた意見交換になった。とりわけ生活指導に関しては彼我の違いが大きく、話も盛り上がってきた。
 あのイギリスかぶれしたようなガイドのミセス・ハリスが通訳していたのだが、私はあえて英語で発言し、意見の違いは違いとして残るものの、互いにそれなりの納得をして応答を終えた。
 すると、ミセス・ハリスが立ち上がり、
「ただいまの先生は何をおっしゃったのでしょうか。私には先生の英語は理解できませんでしたので、通訳することができません。このままでは皆さんがお困りになりますので、ご自分で皆さんにご説明なさってください」
と、厭味たっぷりにのたもうた。
 ハリス夫人にしてみれば、自分というれっきとした通訳がいるのに、へたくそな英語でやりとりをするとは生意気な奴だ、ということなのだろう。
 しかし私は相手への敬意を込めてあえて相手の言語を使ったのであり、自分の英語が夫人よりも上だなどとは思っているわけもない。
 海外旅行をするときにたとえ一言でも相手国の言葉を使うように、というのは海外旅行のイロハではないか。それにこのときは相手も私のへたな英語に内心苦笑しながらも誠実に応答してくれたのであり、私も納得して話を終えている。なにも目くじらを立てて自分で通訳しろなどと息巻くこともあるまいに。
 夫人の狭量な態度とは異なり、先方の先生方は私が中学生並みの英語でやりとりしたことにことのほか好意を持ってくれ、視察を終えてのティーパーティでは、そのことでずいぶんと話が弾んだ。

 スティーブ君という生徒が私のホストとなり、寮を案内してくれるという。
 寮内は雑然としており、部屋の中にはあちこちヌード写真など貼ってある。これでは先生に叱られるだろうと言うと、寮は完全自治制で、教師の監督は及ばないのだという。日本では考えにくいことだ。
 寮の食事が提供されるというので食堂に行ったところ、スティーブ君の友人が集まってきて質問攻めになった。日本の位置を知らない生徒もいて、本当に屈指の進学校なのかと怪しくなった。
 3時から課外活動を見て回ったが、ここで嬉しいサプライズがあった。
 K高校のFさんが日本の童謡「里の秋」と「赤とんぼ」の楽譜を土産に持って行ったのを、吹奏楽部の顧問がコピーし、ちょうど練習を見に行った我々の前で演奏したのだ。
 部員たちにしてみれば突然配られた楽譜と、ドヤドヤと入ってきた外国人で、いったい何事かというところであろうが、Fさんが勧められて指揮をしたところ、ものの見事に演奏し切った。
 私は大いに驚き、感激し、後年勤務先の吹奏楽部顧問にその話をした。その顧問によれば、知らない曲を初めて見た楽譜でいきなり演奏することは、そう難しいことではないということであった。にわかには信じがたい。

 ホテルまでは一人で帰る。途中2階建てバスが来たので飛び乗ったが、どうやって料金を払うのか分からない。事前に読んだガイドブックでは車掌が切符を売りに来ると書いてあったので、2階席に上がり、そのうち来るだろうと思っていた。
 しばらくして見覚えのある街区に出たので、慌てて飛び降り、結局無賃乗車になってしまった。
 ホテルに着くと、R高校のGさんとC高校のHさんが私の部屋の前で待っていた。単独行動を叱られるのかと思ったら、部屋にキーを置いたまま廊下に出てしまい、ドアが開かないので、フロントに頼んで開けてくれないか、ということであった。
 よくあることで、別にどうということもない。そんなことは日本語で言っても事が足りるくらい、ホテルにとっては日常茶飯事である。そんなことで、いつ帰ってくるか判らない私を廊下で待っていたとは。
 それに、Hさんはいやしくも英語の教員である。私の英語などは破れかぶれのブロークン・イングリッシュですから、どうぞ先生ご自身で頼んでください、と何度も断ったが、どうしてもというので、やむなく私の部屋からフトントに電話をして開けてもらう。
 それだけでも呆れた話であるが、翌朝、食事の席でGさんがその失敗談を皆に披露し、このホテルのドアは自動的に鍵がかかるようになっていますから、皆さんも気をつけてくださいと言ったのにはもっと呆れた。
 そして絶句するほど呆れたのは、Gさんが、「仕方がないから訳有さんの部屋の電話を借りてフロントに連絡して開けてもらったんですよ」と、さも自分が電話したように話したことである。
 私がそこにいないのならまだしも、私の前で平然と自分の手柄のように話す、その神経は並みのものではない。

 さてHさんは、英語の教員でありながらその程度のこともできないで、さぞかし自分のことを恥じているであろうと思うと、そうではない。ドアの鍵を開けてもらうということは多分、手に余る難事だったのであろうが、もう少し易しい場面では大いに出しゃばり、却って事態を混乱させること度々であった。
 例えばこうである。団員の、それも女性団員の通訳を積極的に買って出て、なにかというと割り込んでいく。通訳と言ったって、せいぜい値段をまけろとか、両替を頼むとかいう程度であるが、たまたまその場に居合わせた私は、日本の英語教育について絶望的な気分になった。
 女性が買いたいという品物を指して、Hさんが店員に言った言葉はただ一言、「ディスカウント」。これが通訳である。無論それでも通じるが、いやしくも英語の教員であるならば、もう少しまともな英語を使ってもらいたいものだ。
 しかもその日の夕食時に他の団員たちに得々と話しているのを聞くと、○○さんが××を買いたいと言うんで、私が店員と交渉してまけさせてやったんですよ、などと言っている。あれを交渉と言うのだろうか。
 また、イギリスからスペインに移動するとき、当時は今のように統一通貨のユーロが使われていなかったので、出発前にガトウィック空港でスペインのペセタを手に入れておこうという話になった。
 ある女性団員が、ポンドは使い切ってドルしか持っていないが、イギリスの空港でドルは両替できるだろうか、と訊いた。
 空港の銀行が外国通貨を別の外国通貨に両替することはない。だからイギリスでドルをペセタに替えるのであれば、いったんドルをポンドに替え、それからペセタに替えなければならない。つまり手数料を2度払うことになるので、それくらいならスペインに着いてからドルをペセタに替えた方がいい。
 私がそれを説明しようとすると、Hさんが、「大丈夫、大丈夫。私が替えてあげましょう」とか言って、その女性からドルを預かり、銀行窓口に「チェンジ」と言って差し出した。
 銀行がよこしたのは勿論ポンドで、Hさんは「ノー、ノー」と言ってポンドを押し返したが、それ以上の会話にはならず、結局両替はできなかった。
 親切な銀行員であれば、気をきかせていったんポンドにした上でペセタに替えるということをしてくれるかも知れないが、それにしても銀行員は客が次にどこの国に行くのか知らないのだから、「チェンジ」とだけ言って外国紙幣であるドルを出されれば、自国のポンドを渡すのは当り前である。
 Hさんが、ふだんどんな顔でどんな授業をしていたのか知らないが、おそらく生徒も早々にHさんの力を見限って内職に励んでいたことであろうし、その方が生徒のためであることは間違いない。

 

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