欧州視察旅行余談(1)


 もう30年も前の話になるが、千葉県下の教員17名が欧州の教育事情視察旅行というのに出かけた。
 視察と言ったって、内実は観光旅行で、一応学校訪問などが組み込まれてはいるが、大半は美術館巡りや古城見学など、一般的なヨーロッパ観光ツアーと変わりはない。
 まあ、論功行賞みたいなもので、メンバーについては一応選考らしきものがあり、そのためには所属校からの推薦書の他に、自薦の書類というのも必要であった。英語の教員が有利だという噂もあったから、社会科の私はそこに「特技:英会話」と嘘を書いた。
 おかげでメンバー紹介のときに、「訳有先生は英語が堪能だそうですから、皆さん困ったときは訳有先生に通訳をお願いしてください」などと言われ、行く先々でおおいに苦労することになった。
 書類には渡航歴を書く欄もあった。さてはヨーロッパ経験者を外すつもりだなと思った私は、渡航歴なし、とこれまた嘘を書いた。
 おかげで現地で団長が当てずっぽうに逆方向へ行こうとしても、こっちですよとも言えずに、イライラしながら後をついて行くハメにもなった。

 ともあれ寄せ集めの集団であるから互いの上下関係はなく、便宜上、団長だとか副団長だとかいっても、それは単なる形式で、誰も上意下達の指揮系統などあるとは思っていない・・・筈であった。
 しかし呆れたことに、その臨時に編成された集団を、恒常的な職場の集団と同じに考える人が多く、団長、副団長以下やたらと仕切り屋が現れて、それぞれが自分の価値観で指図するものだから、なんともうっとうしい集団になってしまった。
 無論、メンバーの中には自制心、協調性に富んだ常識人もおり、私は専らそういう人と行動を共にしていたが、そういう人たちはまた寛容性も持ち合わせているものだから、仕切り屋たちの指図にも従容として従う。それが、しばしば狭量な私を苛立たせもした。
 その最たることは、旅行後、そのメンバーの会を作って定期的に食事会や旅行を続けてゆこうという団長の提案に、誰一人異を唱えなかったことである。
 各学校から派遣されたメンバーは、形式的には学校の代表であり、旅行も出張である。してみれば、その出張中に親しくなった者同士が個人的な付き合いを続けてゆくことはいいとしても、組織として会を作るというのは公私混同ではないか。
 団員中最年少(?)であった私は表だって反対もできなかったが、さすがにその会に名前をつけようという提案には「第○回訪欧団」でいいんじゃないですか、と意見を言った。それは通らず、団長の名前をそのまま取って「△△△会」ということになった。
 いやしくも公費を使っての派遣団に個人の名をつけるというのであるから、非常識も極まることである。
 団長の機嫌を取ろうとした提案者にも腹が立ったが、それをしたりとばかりに受けた団長にも呆れ果て、最初の2、3回顔を出しただけで、その後はとんと付き合いをしていない。
 視察報告書についても公費での予算が9万円ついていたのだが、そんなものはどうせ誰も読まないので、私はぺらぺらのものでいいと主張した。しかし団長は、他年度の報告書に負けてはいけないと、団員から1万円ずつ集めて予算に上乗せし、カラー写真満載、上質厚紙の報告書を作らせた。

 ことほどさような次第で、その視察旅行はうんざりすることの連続であったが、それでも個人的には収穫も多かったし、メンバーの中には尊敬できる人も半分くらいはいたので、私としては価値ある旅行であった。
 当時のメモを見ると、腹立ち紛れに色々なことが書いてあるが、あれから年月も経ち、怒りの感情は残っていない。そろそろ抑えた文章が書ける頃かなとも思う。
 視察、見学については前述の報告書に詳細な記録が残っているが、当事者の私でも読む気にならないので、ここに転載することはやめておく。
 以下に述べるのは、携行した手帳に書きなぐった雑記を抜き書きしたもので、腹立ち紛れに書かれた過激な言葉はカットしてある。

パリで
 ノートルダム寺院の堂内には「 SILENCE 」と貼り紙がしてあり、同じ場所に日本語で「静かに」とある。その他に韓国語、ドイツ語、フランス語らしい文字も並んでいる。
 しばらく前にPTAの行事で講演にきた人が、「ノートルダム寺院に行ったときに、日本語で静かにという注意書きが貼られているのを見て、大変恥ずかしい思いをした。外国人はマナーができているが、日本人はマナーがなっていないということがよく分る」などと言っていたが、何のことはない、その人が日本語しか読めなかっただけのことだ。
 ルーブル美術館の見学に先だって、全員で記念撮影。写っていなかった。
 説明すると、こうである。
 旅行前にメンバーの役割分担というのが決められた。
 私は連絡係などという、まあ使い走りのような役を割り振られたのだが、その席でR高校のGさんが写真係を買って出た。
 いわく、Gさんはカメラを3台持っており、そのうちの2台はライカ、1台はナントカで、旅行にはいつも3台を持って行く。今回もその予定だ、ということであった。
 さらにGさんは、長い旅行なので、メンバー同士の懇親が何より大切、そのためにはまず全員の顔と名前を覚え合う必要がある、と言って驚くべき作業をした。ポラロイドカメラを持ってきて、全員を並ばせ、事務員に命じて同じ写真を18枚撮らせた。シャッターを18回押させたのである。
 その18枚に各自が自分の名前を書き込む。つまり18回自分の名を書くと、添乗員の分を含めて18枚の名前入り集合写真ができる。それを1枚ずつ持ち帰らせ、名前を覚えてくるように、というのである。
 そのポラロイド写真はしかし、互いに「これがあなたではないですか?」などと訊き合わねばならぬほどピンボケだったので、何の役にも立たなかった。もっとも、そんなことをする前に皆互いの顔も名前も覚えていたので、とくに困ることもなかった。
 ルーブル美術館の前で撮った写真は多分ライカを使ったのであろうが、あとで聞くと、フィルムが巻かれていなかったとかで、幻となった。

 夕食後はとくに予定もなかったので、同室のIさんにだけ断って、外出。
 地下鉄でシャンゼリゼ通りに行き、モンテカルロという映画館で「カリギュラ」を観た。
 切符売り場のオバサンが怒ったような口調でなにやらまくしたてていたが、フランス語はまったく判らないので無視して入ると、別のオバサンが席までくっついてきて、チップを要求する。仕方がないから1フランやると、今度はキャラメルを出して、買わせようとする。 断る言葉も知らないから知らん顔をしていると、諦めて帰っていった。
 映画は全然面白くなく、すぐに眠ってしまった。

 定番のパリ観光の合間に土産物屋に連れて行かれる。パックツアーではしばしば行程の中に組み込まれている“お買い物タイム”だが、私はおよそ買い物というものに興味がないので、いつもバスが出る時間だけを聞いて店外に出てしまう。
 このときも店に入ってそのまま出ようとしたのだが、なんとドアには鍵がかかっていた。買うまで監禁ということか。店員は殆どが日本人だったので、日本語で鍵を開けてくれと頼んだが、1人で外に出ては危ないとか何とか言って、なかなか開けてくれない。
 添乗員の熊倉さんに直訴して、やっと開けてもらった。
 歩いてみると、改めてゴミの多さが目につく。犬の糞もいたる所に落ちている。それを踏まずに歩けるようになればパリっ子の仲間入りだとガイドの西山さんが言っていた。
 車の汚さ、駐車のでたらめさも相当なものだ。街が古くて駐車場を新しく作れないので、路上駐車は黙認されることが多いのだとか。仮に捕まっても、罰金など無視していれば、次に大統領が代わったときに恩赦になるのだという話もある。
 西山さんはまた、毛皮を着ている女性がいたら、それは売春婦だから気をつけるようにとも言っていたが、老いも若きも毛皮を着ており、区別がつかない。

 ドイツに移動する日、パリ北駅でのこと。ここにはスリが沢山いるから気をつけるようにと西山さんが注意する。手口はいつも同じだということで、その手口も詳しく教えてくれた。
 そして、その通りの手口で副団長がやられた。
 この副団長はS高校の校長で、視察団の中にもその地位を持ち込んで偉そうにしていたが、この一件を始めとして、何かとドジを踏んで皆に迷惑をかけた。

デュッセルドルフで
 ホテルでの朝食。ミネラルウォーターを頼もうと、ウエイトレスを呼ぶ。
「フロイライン Fräulein ! (お嬢さん)」
 私が使った初めてのドイツ語である。といって、ほかにドイツ語を知っている訳ではない。
 学生のときに私は第二外国語でドイツ語を選択した。なんとなくフランス語は軟弱、ドイツ語は雄々しいという先入観があっただけのことで、最初の授業で、これはダメだと思った。まったく歯が立たなかった。そんなときに若い女性への呼びかけとして習ったのを、今回たまたま思い出しただけのことである。
 ウエイトレスは天使のような笑顔で近づいてきた。
 何か言ったが全然判らない。それと察したらしく、すぐさま英語に切り替えてくれ、一応注文はできたが、運んできたミネラルウォーターを持ったまま、2マルクだと言う。昨夜遅く着いたばかりでまだドイツのお金を持っていないから部屋につけておいてくれないか、と頼んだが、ダメだと言う。ドルではだめかとも訊いたが、ダメだと言ってにべもない。
 こうなるとなまじ顔立ちが可愛らしいだけに、よけい憎たらしくなってくる。
 仕方なくフロントに行って両替をしたが、今のように統一通貨が使われていなかった時代であり、ヨーロッパ旅行ではよくある話であった。不便といえば不便であるが、移動のたびにお国柄の表れた通貨を手にするのは、それはそれで楽しみでもあった。

 フランツ・ユルゲン・シューレという国立の職業訓練所に行く。
 教育視察が建て前の旅行であるから、昼過ぎまでたっぷりと時間をかけ、授業見学やら、日独の教育制度についての比較討論など、充実した内容であった。
 ただ、「ドイツと日本と、どっちの工業技術が上ですか」とか「ナチスを信奉している人は今どのくらいいますか」とか、意味のない質問をする奴輩がいて、通訳が「ちょっとマズイので、質問を変えてくれませんか」と言って独訳を渋った場面があり、なんたるレベルの低さかと、情けない思いもした。
 美味しいじゃがいも料理を添えた昼食を出してくれたが、ビールが出たのにはびっくり。日本では考えられないことだ。
 ほかにも生徒の喫煙について、それは家庭の問題だから我々には関係ないと言ってのけるなど、日本人の感覚では理解しがたい話が沢山あった。
 そういう中で、誰かが持っていたタバコを見て、日本のタバコなのにどうして英語の名前がついているのかと訊かれたときは、我が意を得た思いであった。
 日本人は外人をモデルに使ったり、外国語で表記したりすると格好良いと思っているようで、何にでも外国語の名前をつける。情けない話で、外国人から不思議がられるのも無理はない。

 近郊の古城などバスであちこち見て回り、最後にケーニヒスアレーの刃物屋に行く。買い物に興味のない私だが、ここだけは初めから行くつもりでいた。
 子供のころ、父が洋服の仕立て屋だったことも関係していたのか、ゾーリンゲンの刃物というのが優れているということは知っていた。
 また、どういうことか判らぬが、子供たちが、「切れ味抜群、ソーリンゲン!」と歌いながら身体をくねらす遊びがあって、私も踊ったりしていた。仲間に床屋のせがれがいて、そいつの踊りが群を抜いていたが、今考えてみれば、床屋もゾーリンゲンのカミソリを使っていたのかも知れぬ。
 何より、以前人から貰ったゾーリンゲンのハサミがまさしく“切れ味抜群”であって重宝していたので、手に馴染むものをもう1丁買いたいと思っていたのである。
 幸いデザインも切れ味も申し分ないものが見つかり、それは今も使っているが、切れ味はまったく落ちていない。
 ところで、この店ではあのパリ北駅でスリにやられた副団長も買い物をしたらしい。
 なんでもハサミを 150丁買ったそうで、そのため次の訪問国で税関に引っ掛かり、全員が1時間以上も待たされた。結局そのハサミは出国まで税関預かりとなり、出国の際にもその受け取りに時間がかかり、全員が待たされる。
 職場や親戚に配る土産だそうだが、非常識にもほどがある。
 刃物屋からはホテルまで直行ということなので、私はバスを降ろしてもらい、歩いて帰ることにする。
 ぶらぶら歩いていると、やたらセックスショップの多い通りに出た。ショーウインドウにいかがわしい品物が沢山並んでおり、立ち止るのも気が引ける。
 何軒かストリップ小屋のような所があり、裸の女が鞭など持って踊っている写真やハンモックの上でコトを行っている男女の絵などがでかでかと掲げられている。それらを目当てに歩いているように見られるのではないかと思い、足早に通り抜ける。

 夕食は街のレストランで。それはいいのだが、昼間のバスの中で団長から指示があった。その内容はこうだ。
 今晩は街で食事をとることになっている。一流レストランではあるが、西洋料理であるから口に合わないと思う。ついては事前に何か食べたりせず、必ず空腹の状態で集合せよ。空腹であれば、たとえ味が悪くても食べられるから。
 断っておくが、これは本当の話である。そして断っておくが、団長は職場では校長である。
 世の中には仕切りたがり屋もいるし、なにかと講釈したがる人もいる。しかし、レストランに空腹状態で行けと大真面目に指示を出す人物というのは、後にも先にも、この人しか知らない。
 しかもそのレストランで、ビール、鳥、じゃがいも、栗、芽キャベツ等の料理が運ばれるたびに、団長が添乗員にその料理について説明させ、それが終わるまで全員が待たされるという按配で、私はもう呆れるやら腹が立つやらで、発狂寸前であった。

ケルンで
 ケルン大聖堂見学。世界史の教科書に必ず写真が載っているゴシック建築の代表的な教会であるから、おのずと身の引き締まる思いがする。
 キリスト生誕から磔刑までを描いたステンドグラスはつとに有名で、信仰心のない私でも思わず襟を正して仰ぎ見る。
 塔に登る。狭いらせん階段を登ることしばし。息が切れて足を止めると、周りの壁は落書きだらけでがっかりするが、幸い日本語は見当たらなかった。
 ようやく鐘楼に出る。その先にまた鉄の梯子があったので、それも登る。途中で下を見たら膝ががくがくしてしまい、どうにも動けない。そのまましばらく気持を落ち着け、やっとのことで登り切る。
(2010年に再訪したときには、梯子ではなく階段になっており、たやすく登れた)
 ノートルダム寺院でも塔に登り、このあともスペインの城壁など登ったのはごく自然な興味からで、とくに変わった行動だとは思っていなかったが、なぜか私はいつの間にか、高い所に登りたがる変人ということになってしまい、その後、なにかにつけてそのことを言われた。
 聖堂前のホーエ通りではホームレスと思しき男性にカネをせびられたが無視して通り過ぎた。小銭を渡してもよかったのだが、カネを恵んでやるという行為が彼我の位置関係に高低をつけるようで、どうにも抵抗がある。
 これまでいろんな国で物乞いに遭ったが、相手が子供のときを除き、やはり抵抗があった。少しばかりのカネを渡して礼を言われたときなど、後味の悪さは例えようがない。
 それに、ドイツといえば押しも押されもせぬ先進国である。そのど真中で貧しさから金を乞う人を見るのは、なにかやりきれぬ気がして、今でも忘れることができずにいる。

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