シンガポール・バンコクの裏側(1)


スチュワーデスはスチュワーデス


 近畿日本ツーリストの千葉教育旅行支店に、山本民雄さんという稀代の支店長がいた。長く支店長を務めたあと本部の要職につき、その後乞われて奥日光高原ホテルの社長になった。
 年は私より3つほど下だが、人格、力量ともに群を抜いており、私は彼を心底、尊敬している。
 ただ困った癖も有しており、私の家に電話をくれるときに「千葉県警○○署の者ですが」などと名乗るものだから、妻は一再ならず肝を冷やし、何かやったんですか、などとうろたえている。
 その山本さんがまだ第一線の添乗員として飛び回っていた頃、シンガポールとバンコクに行く格安のツアーがあるが参加しないか、と言ってきた。
 格安という言葉を何度も繰り返し、事実、格安であった。何より、山本さんが添乗するということなので、一も二もなく話は決まり、同僚の加納さんと岡田さんが同調した。1977年のことである。

 さて当日、私たちは前泊した都内のホテルから羽田に向かったが、指示された集合時間になっても、私たちの乗ったタクシーは空港からはほど遠い品川の路上で渋滞に巻き込まれて立ち往生していた。
 これだけ遅れると、この先どうやったって間に合う訳もないから却って開き直ってしまい、赤信号だろうと黒信号だろうと、苛立つ気分はまるでない。ただ、岡田さんだけは親戚中に言いふらして餞別を30万円も貰ってきたということで、このままでは帰るに帰れないと、憔悴し切っている。
「ねえ、岡田さん。何て言って帰るの? 俺は誰にも言わずに来たからいいけど、あんた、親戚中に言ってあるんでしょ。格好つかないよ」
「・・・」
「とにかく、帰ろう。運転手さん、どっか近くの駅につけて下さい」
「近くと言ったって、駅はないですよ。羽田からモノレールで帰ったらどうですか」
 そんなやりとりの末、羽田に着いた。集合時間から1時間以上遅れている。
 ここから帰るのかと思いながらノロノロとタクシーを降りかけると、近畿日本ツーリストのSさんが、針金みたいな痩身をくねらせるように飛んで来て、
「死ぬかと思いました。早くしてください!」
と、すっとんきょうな声を出した。
「えっ、まだ間に合うの?」
「ほかの人たちはもう行ってます。山本も先に行ってます。早く。早く!」
 Sさんが走る。加納さんが走る。私が走る。ずっと遅れて岡田さんが、親戚中に買う土産を入れるために購入したという大きなスーツケースを押しながら、ヨタヨタと走ってくる。
 荷物を預け、出国審査場に行くと、そこはまた大変な混雑で、右から押され左から押され、さらに小突かれ、足を踏まれ、一向に進まない。今思うと不思議だが、あの頃は各ブースに並ぶということがなく、初詣の参拝客のように押し合いへし合いして出国審査を受けていたのだ。
 そうこうするうちに飛行機の出発時間を過ぎてしまったが、それでもまだ、私たちは審査ブースに近づくことすらできずにいた。既にチェックインは済んでいるので、我々を残して飛んでしまうこともあるまいが、逆に、飛んでくれた方が気が楽だと思うほどの遅れようである。
 やっとのことで飛行機に乗り込んだとき、スチュワーデスが当てつけのようにドアを閉める合図を送り、乗客たちが一斉に、咎めるようにこちらを見た。

 スチュワーデス。ああ、何と言う響きであろう。それが彼女たちを見下した言い方であるということで、今ではキャビン・アテンダントという。
 英語を母国語とする人たちにはスチュワーデスという言葉がどう響くのか知らないが、こちとら自慢じゃないが、そんなことは判らない。子供の頃からスチュワーデスと聞いており、才色兼ね備えた選りすぐりの女性がつく職業だと思ってきた。
 当時はまだスチュワーデスの採用条件として「容姿端麗」という項目が堂々と掲げられていたそうで、私などたまに美女とは言えぬスチュワーデスを見かけたりすると、縁故採用されたのだなと思ったりしたくらいである。
 だから、スチュワーデスという言葉は、見下すどころか高嶺に咲く妖艶な花を見上げるくらいの眩しい響きをもっていた。キャビン・アテンダントなんぞと言われても、心がときめかない。
 そのスチュワーデスであるが、シンガポール空港には、シンガポール航空のスチュワーデスがいっぱい歩いている。
 なんでそんな間抜けたことを書くかというと、シンガポール航空のスチュワーデスは、世界の航空旅客が絶賛してやまない美人揃いなのである。
 ある世界規模の調査によれば、「もう一度乗りたい航空会社」のトップは常にシンガポール空港だそうで、その理由がスチュワーデスにあることは言うまでもない。
 その美女たちが、腰の線もあらわな嫋々たるコスチュームに身を包んで、空港の人混みで、
「チョットスイマセーン。チョットスイマセーン」
と言いながら日本人客の間をすり抜けてゆくさまは、得も言われず艶めかしく、私はタラタラと涎を垂らした。
 なにせ、言っても詮無いことながら、私たちの乗った飛行機は、キャセイ航空であった。無論スチュワーデスは乗っていたが、制服もなんだか事務員みたいで、ちっとも色っぽくはなく、お世辞にも愛想が良いとは言えない。
 両手に紅茶とコーヒーのポットを持ち、ニコリともせずに、
「チー? コフィー?」
と訊きながら歩いている。
 客が差し出すカップめがけてドボドボと注ぐのだが、双方とも手が宙に浮いているので、ときに狙いが狂うこともある。
「コチャ! コチャデスカ!」と言うのは、紅茶はいかがですか、という意味らしい。 
 客がコーヒーがいいとか、コーラはないかと言うと、「チョットマッテクダサイ」と言うが、だからといってコーヒーやコーラを取りに行くということはない。
 この「チョットマッテクダサイ」という日本語はずいぶん聞いたが、すべて「ありません」「わかりません」「できません」という意味に使っているようであり、日本のスチュワーデスの柔らかな物腰に慣れている目には、ずいぶんブッキラボウに聞こえる。
 とりわけ、中国人と思われる一人のスチュワーデスは、何が不服か知らぬが終始不機嫌な顔をしており、何を言っても返事もしない。岡田さんによれば、物を拾おうとしてしゃがんだときにパンツが見えた由であるが、そんなものに何の価値があろう。
 さてそのシンガポール空港で、山本さんから厳重な注意があった。治安の良いシンガポールではあるが、観光客を狙った犯罪が皆無という訳ではない。夜はなるべく外出しないように。たってということであれば私がお供しますので、声をかけてください。
 これではまるで修学旅行ではないか。

 という訳で、夜は山本さんに内緒で飲みに行くことにした。
 ホテルを出ると中年の男が「イイコ、イイコ」と言いながら近づいてきた。何だか判らないので無視してタクシーに乗ったが、あとで考えると、いい娘がいるから遊ばないか、という誘いだったのだろうと思う。
 タクシーの運転手が、1時間8ドルで観光しないかと言う。
「ワタシ、ショウカイ、ヤスイ」などとそこだけ日本語で、どうも怪しいので適当な所で降りてぶらぶら歩いていると、公園に出た。屋台が沢山出ている。焼き鳥を食べる。結構旨い。
 また歩いていると、タクシーが来た。乗り込んで、酒を飲みたいがどこか良い所はないかと訊くと、オーケーと言って猛然と走り出した。
 運転手は多弁な男で、次から次へとよく喋るが、訛りがひどく、よほど注意して聞かないと、何を言っているのか判らない。一応英語ではあるのだが、thの音を完全にtで発音するから、Thank you. はタンキューとなり、three はトゥリー、thousand はタウザンドとなる。
 たかが酒を飲むのに、そんなに遠くまで行くのかと思うほど走ったあと、車は4、5階建ての古びたビルの前に止まった。
 3、4人の男がたむろしている。運転手がそこに行って何やら話しているが、聞いたことのない言語で、無論内容は判らない。
「マスター」と呼ぶので出て行くと、運転手が男について行けと言う。男は狭い階段を上がって行く。映画で見た貧民窟のような感じで、誰かがアヘンでも吸っていそうな廊下を曲がり、さらに階段を上がって行く。
 ガランとしたコンクリート壁の部屋に通された。ソファーが1脚あるだけで、あとは何もない。人もいない。
 なんだか危なっかしい所に来てしまったなと思っていると、半ズボンにサンダル履きの、見るからに狡猾そうな老人が出てきた。日本語でオカネ、イクラアリマスカ、と訊く。
 やぶから棒に何だと思ったが、まあ少しくらいならあると答えると、1人 100ドルでいいかと訊く。当時は1シンガポールドルが 100円ちょっとであったから、ざっと1万円というところか。
 ちっとばかり高いなとは思ったが、まあいいだろうと答えると、老人は勢いよく振り返り、何やら大声で叫んだ。すると、入口から一目でそれと判る女たちが、ぞろぞろと十数人も入ってきて、壁を背にズラリと並んだ。人種は判らぬものの、皆アジア系の顔立ちで、壁に寄り掛かったり腕組みをしたり、とにかく態度が悪い。
「ドレ、イイデスカ」
 老人の言葉に、やっと事態を呑み込んだ私たちはうろたえた。
「いや、そんなつもりで来たんじゃない。飲むだけ。飲むだけ。女いらない」
 老人は、英語と日本語を混ぜながら、100ドルでいいと言ったではないか。オールナイトヨ。ヤスイ。ドウゾ。というようなことをしつこく繰り返す。
 思えば、日本の男が3人で行く先も告げずにタクシーに乗れば、目当てはそれだと相場が決まっていたのであろう。折しも東南アジアにおける日本人男性の買春ツアーが取り沙汰されていたときでもあった。
 私は、自分たちがその手の客と取られたことに悲憤慷慨して、我々はそのような不埒な目的で来たのではない、卑しむべき一部の日本人と一緒にしないでくれ、とまくしたてた。
 考えてみれば、娼婦を前にして、自分は紳士であると力説したところで意味のないことで、彼女たちに見直してもらえるものでもない。
 ついに私たちにその気がないと悟った老人は、これ以上はないであろう剣幕で女たちを下がらせ、あの女たちにもいくらか渡さなければならぬ、案内の男たち、運転手にもチップが必要だ、相応の金は払ってくれと詰め寄ってきた。
 そういえば階段を先導してきた男たちは人相が悪く、良くて用心棒、悪くすると殺し屋くらいに見えた。私は仕方なく、3人分だと言って、日本の1万円札を渡して外に出た。
 タクシーは待っていた。その時になって私は、降りるときに料金を払わなかったことに気づいたが、あれは客が女を連れて出てきて直ちに別の場所に行くことを見込んでいて、最終地点で請求することになっていたのだろう。
 運転手は、気に入った女がいなかったぐらいにしか思わなかったようで、もっといい女のいる所に案内すると言う。
 俺は酒を飲みたいと言った筈だ、なんであんな所に連れて行ったんだ、と文句を言ったが、運転手は涼しい顔で、酒も女もジョウトウな所があると言い、恬として悪びれる様子がない。
 私はむっとして自分たちの泊まっているホテルの名を告げ、あとは運転手が何か言うたびにホテルの名だけ言い返し、やっとホテルに戻った。
 ロビーに山本さんがいて、どこに行っていたのかと咎めるような口調で訊く。ちょっと街を散歩してきたと言うと、出かけるときは一緒に行きますから、ちゃんと言ってくださいと、ややきつい調子で注意された。
 どうも近畿日本ツーリストの添乗員たる者が、客を不道徳な場所へ行かせたりする訳にはゆかぬと、目を光らせているようであった。



旅行直後に書いた旅日記を今回短く書き直したものです。


グアムがジャングルであった頃(3) シンガポール・バンコクの裏側(2)
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