グアムがジャングルだった頃(2)


美しい海とナマコの怪


 島巡りのバスは、ラッテストーンという変てこりんな茸型の巨石が並んでいる公園やら、スペイン古橋というただの橋やら、いろいろ見たあとで、恋人岬という所に行った。

 アンダーソン空軍基地に近い 123メートルの断崖絶壁で、恋人岬という名の由来はこうである。
  その昔、それは美しい1人のチャモロ娘がおりました。娘に言い寄る男は数知れず、
 とりわけ支配者のスペイン人は、金と力にものを言わせて強引に娘の両親を口説くの
 でした。とうとう慾に目の眩んだ両親は、そのうちの1人、スペインの老船長に娘を
 やることを約束してしまいました。ところが、この娘には相思相愛のチャモロ青年が
 いたのです。叶わぬ恋に絶望した2人は、船長との婚礼の夜に、手に手を取って駆け
 落ちしました。岬の端まで追い詰められた2人は、もはやこれまでと、お互いに髪の
 毛を結び合って、かたく抱き合ったまま、直下の波濤に身を投じたのでした。その後、
 2人を呑み込んだ月夜の海には、かけがえのない娘を失い、悲しみに打ちひしがれた
 両親が悔恨の情を込めて手向けた、可憐なポマリアの花が漂っていました。

 と、まあ、こういう訳でなんとも哀れで美しい物語であるが、どうも崖と水には人の想像力を掻き立てる魔力があるようで、洋の東西を問わず、崖のある所、水のある所には必ずと言ってよいくらい、血涙を誘う悲しい伝説が残っている。
 付言すると、そうした話には決まって、若く美しい娘というのが出てくるのだが、これはちょっとばかり怪しい。たまには二重あごで三段腹のオバサンだって飛び込んだりはするのだろうが、それが語り継がれたためしはない。
 恋人岬などというわざとらしい名称に惹かれてか、同乗の新婚カップルたちは我先にバスから飛び降り、一斉に記念写真を撮り始めた。私にカメラのシャッターを押してくれという人がいて、仕方なく応じると、たちまち何組かのシャッターを押すはめになり、私はすっかり白けて、バスに戻ろうとした。

 バスの前にはいつの間にか、ゴム草履を履いた現地の女の子が数人集まっており、手に手に貝を繋げたネックレスを持って観光客に差し出している。どれも1ドルらしく、指を1本立てている。
 さきほど私にシャッターを押させた女が「ワンドル?」と訊き、少女が頷いて、どうやら商談が成立したらしい。それにしても、ワンドルなどという英語があるものだろうか。

 その夜、ポリネシアンショーというのを見た。ホテルの庭に設けられたステージの上で、半裸の男女が躍動的なリズムに乗って踊り続ける。
 踊り手は現地チャモロの若者たち。男は皆屈強、女はまた豊満かつしなやかで、その妖しさは、この世のものとも思われぬ。
 私があんぐりと口を開けて観ていると、一番小柄でとりわけ魅惑的な踊り子が、私に向かってあたかも旧知の間柄ででもあるように笑みを浮かべ、手を差し出してきた。私は瞬時にして魂を失い、フラフラとステージに上がった。
 プルメリアのレイなど首にかけられ、殆ど放心していると、くだんの踊り子が嫋々とした腰をゆっくりとくねらせ、私にも同様に踊れと促してくる。私は両手を頭上に挙げ、前後左右に腰を振った。
 リズムがだんだん速くなり、男たちが激しく太鼓を打ち鳴らしては、奇声をあげて囃し立てる。美女の全身が信じがたい速さで揺れ動き、長い髪が宙に浮く。息ひとつ乱さず微笑み続ける舞姫に比べ、私はと言えば、汗にまみれ、息が切れて目が眩んできた。
 幸い自分の顔は見えぬものの、おそらく断末魔の形相をしていたのであろう、ゼイゼイと肩で息をしながら席に戻ると、妻が呆れた目つきで私の顔を見ていた。

 グアム島と言えば、やはり海であろう。
 底がガラス張りになった小舟で魚を見るというのに乗ると、なるほど珊瑚礁に泳ぐ色とりどりの熱帯魚も見える。ただ、魚よりもその下に、何やら棒状の物体がゴロゴロと転がっているのが目につく。スクリューで海水が攪拌されるのか、水の動きにつれて、右にゴロリ、左にゴロリと転がる。形といい大きさといい、どう見てもヘチマなのだが、聞けばナマコだそうで、げんなりする。
 それはどうもいただけないが、やはり白い砂、青い海とくれば、ここで泳がぬという手はない。一日、ココス島で遊ぶことにした。
 グアム最南端の村メリーソの沖合い4キロの所にある無人の小島で、椰子が密生し、白い砂浜が美しい。
 尤も、無人の小島と書いたのはその当時のことで、今はまるで様子が違うらしい。最近、もう一度行ってみようかと思って、旅行社のパンフレットを見たところ、無人島どころか、ナントカリゾートというのができており、ジェットスキーからパラセーリングから、何でもできる。

 メリーソからはモーターボートで渡ったが、これが実にのろい。 船べりから手を出し、海面に浸けていても、殆ど水の抵抗というものを感じない。
 着いてみると、ニッパ椰子の葉で屋根を葺いた東屋が2、3棟あるだけで、飲み水すらない。正真正銘の無人島であった。更衣室もないので木陰で着替え、脱いだ物を砂の上に置いたまま、海に入った。
 こんなにも透明な海水というものがあるのかと、ひとしお感激した私は、理由もなくその海水を舐めてみて、やっぱりしょっぱいなと当り前なことを考え、次に沖に向かって泳ぎ出した。
 沖と言ったって、どこまでも遠浅で、かなり泳いだつもりでも せいぜい胸の辺りまでしかない。
 その胸までしかない所で足をついたとき、足の裏に、何やらグニャリと異様な感触を覚えた。反射的に足を上げたので、海水がゴボッと鼻に入る結果となったが、潜ってみると、またぞろナマコである。
 幸いここのはさほど大きくはないが、その数たるや 100匹や 200匹ではない。まるで海底に敷き詰められたように、夥しい数のナマコが散らばっている。
 敷き詰めた、というのはいかにも大袈裟に聞こえるだろうが、実際、足をおろせばその都度、必ずナマコを踏んづけてしまう。

 エメラルドグリーンに輝く南海の珊瑚礁の、もう一つの現実を見せられて私は気色が悪くなり、早々に浜に上がると、もう二度と泳ぎはしなかった。
 それにしても、いったいぜんたい、このナマコというのは何という代物であろう。
 全身いぼいぼのついた円筒状をしており、どちらが頭なのかも判らぬ。それでも確かに一方が頭で、そこには口もあり、砂泥を呑み込んではその中の微生物を消化して、残りを他の一方、即ち肛門から糞として排出する。
 刺激するとこの肛門から腸を出すので、それを切り取ると、それが再生して、また1匹の成体になるという。呼吸は肛門でする。まことに重宝なコウモン様だが、動物界には度し難い奴がいるもので、カクレウオというウナギに似た魚は、こともあろうにそのナマコの肛門に入り込み、そこを隠れ家としているそうだから、まあ、ナマコも舐められたものである。
 それにしても、造物主の悪ふざけによってこの世に出現したとしか思えぬそのグロテスクな姿を見れば、悪魔だった怖気づくであろうと思うのに、あにはからんや、神をも恐れぬ人間は、不謹慎にもこのナマコを食べてしまう。
 最初にナマコを食べた人は勇気があるとかいう話を聞いたことがあるが、なに、初めてでなくたって、こんな物を食うのはよほどの勇者か、霊長類の名を汚す蛮人くらいのものであろう。


 泳ぐのをやめた私たちは、島を一周してみることにした。一周と言ったところで、全長が1,400メートル、幅が250メートルという小さな島だから訳はないが、亜熱帯植物が生い茂っており、何よりも人の気配がなく、ちょっとした探検気分が味わえる。
 やはり椰子の木が多く、島の中ほどではジャワ椰子、周辺部ではココ椰子が見られ、そこここに実が落ちている。
 タモン湾での失敗に懲りず拾い上げようとすると、これが根を張っていて、持ち上がらない。それもこれも、砂の上であれ土の上であれ、よくぞこんな所にと思えるような岩の上にも、しっかりと根を張っている。
 考えてみれば、30メートルもの直幹のてっぺんに、いかにも潮風をまともに受けそうな大きな葉をつけて、それでも倒れずにいられるのは、ひとえにこの根っこの強靭さによるものなのであろう。
 タコの木というのもある。
 タコの木とはまた妙ちくりんな名前だが、幹の下半分から無数に下垂する気根を蛸の足に見立てての命名という。
 樹高は3、4メートルであろうか。細長くて先の尖った葉が枝の先々に密生して、その多くはだらしなく折れて下がっている。まあ、南の島にあるからいいのであって、わが日本庭園に移植してみても、あまり見栄えのするものでもない。
 私はのちに沖縄で同科のアダンという木を見た。これにはパイナップル状の実が赤味を帯びてたわわにぶら下がっていたが、グアム島、ココス島で見たタコの木には、実はついていなかった。

 夜、南十字星を見た。
 以前、漫画か何かで光が十字状に放たれている星の絵を見たことがあり、南十字星というのはそんな星だと、考えればすぐ分りそうな誤った観念を抱いていたのだが、人に教えられてその星を見ると、これが何の変哲もない星で、とくに輝いている訳でもない。
 私はその後、「南十字星なんて、ただの星ですよ」などと人に語ったが、ずっとあとになって、南十字星というのは1つの星ではなく、3個の一等星と1個の三等星が十字状に配された星座の名前だと知ったときには、恥ずかしさで消え入りたい心地になった。

戦争の島、サイパンで思う

 サイパン空港は滑走路のすぐ脇に牧場みたいな柵があり、早朝というのに見物人が鈴なりになっている。子供もいるが、ムームーみたいなものを着たオバサンが多く、皆、おそろしく肥っている。
 ゴーギャンの絵など見ると、タヒチとサイパンの違いこそあれ、南の島の女たちの様子が眩いばかりに描かれているが、皆若く、美しくて、あんなオバサンは1人も出てこない。それなのに私は、サイパンで1人たりとも若い娘を見かけはしなかった。
 断言してもよいが、サイパンの娘たちは年頃になると皆タヒチに送られ、結婚すると帰島を許され、ブクブクと肥るのに違いない。
 尤も、サマセット・モームの『月と六ペンス』には、「腕は羊の腿肉みたいで、大きなキャベツさながらの乳房をもち、幅広く、肉付きの良い頬には、大きな顎がいくつも折り重なり、それらが満々たるうねりをつくって、海のような胸に流れ落ちている五十女」というのが出てくるから、タヒチにも肥った女はいるのであろう。
 いずれにせよ、空港の柵に寄りかかるようにして群れているオバサンたちの肥りようは尋常ではなく、私はどうやって尻を拭くのだろうなどと余計な心配ばかりしていた。
 ここは国連の信託統治領になっていて、一応入国審査があり、パスポートにスタンプも押される。
 さすがにここまでくると日本人観光客は少なく、その日本人を集めて出発した島内観光のバスは、グアム島でのそれよりもさらに小さなマイクロバスで、ガイドも現地の中年男性であった。
 これも私たちが行った 1972年のことであり、最近テレビで見るサイパンは、マリンスポーツのメッカのような賑わいを見せており、人の話では日本人しかいないともいう。
 さてこのガイド氏は、「チャンスをキープしておきましょう」などと、頻繁に英語を混ぜ
はするものの、すこぶる日本語がうまい。

 案内され、島内を回ると、この島がやはりタヒチなんぞではなく、日本と極めて関係の深い、心痛む歴史をもった島であることが分ってくる。
 第一次世界大戦後、日本の委任統治領となったこの島には、多数の日本人が住みつき、その一人、松江春次さんは、島にサトウキビ産業をもたらして島民の尊敬を集めたという。
 その松江氏のブロンズ像が建つ、サイパン公園に行った。サトウキビを運ぶために使われた、オモチャのような 赤い機関車が展示されている。
 公園のそこここにマンゴーの大木が立っていて、長楕円形、黄緑色の実がかたまって下垂している。
 昔、小学校で歌わされた『ペルシャの市場にて』とかいう歌の中にマンゴー売りのことが出てきたが、私はそれがどんなものなのか知らず、今回、羽田のホテルで何とかいう料理の中にあったのを初めて見たもので、そんな物がこうして当り前のように生っているのを見ると、何か不思議な気がする。傍らに「彩帆神社」と漢字で書かれた石碑が傾いたまま建っているのも奇妙なものである。

 マイクロビーチと呼ばれる浜辺がある。
 砂は珊瑚の砕けたものだそうで、黄色味を帯びた象牙色といったらいいだろうか。海は無論透明で、沖に行くにつれて色が変る。これまで想像上のものでしかなかったエメラルドグリーンとかコバルトブルーとかいう色の概念が、初めて実感として捉えられた。
 海と空。まことに相性の良い夫婦のようなもので、海あっての空、空あっての海と言えるだろう。山の空にも見るべきものはあるが、やはり海の空には一歩を譲らねばなるまい。
 そのめくるめく色彩の中に、もっこりと小さな島が見える。マニャガナ島であるが、太平洋戦争中、砲台があったことから、軍艦島とも呼ばれている。
 珊瑚礁と砲台。何とも言いようのない取り合わせであるが、戦争というものは、海の青さなどには毫も目をくれることなく、広がってゆくものなのだろう。
 太平洋戦争末期の 1944年、サイパン攻撃を開始した米軍は、島の沖合いに艦艇775隻をズラリと並べ、徹底した艦砲射撃で日本軍の水際陣地を壊滅したあと、66,800の将兵を上陸させた。
 対する日本軍は 31,600。 近代的な火力の前には為す術もなく、次第に島の北部に追い詰められ、7月5日、斎藤義次陸軍中将は大本営にあて「一人ヨク十人ヲ斃シ、モッテ全員玉砕スヘシ」と打電し、翌6日、将兵に玉砕を命じて自決した。
 南雲忠一海軍中将も「今ヤ止マルモ死、進ムモ死。生死須ラクソノ時ヲ得テ帝国男児ノ真骨頂アリ。今米軍ニ一撃ヲ加ヘ、太平洋ノ防波堤トシテサイパン島ニ骨ヲ埋メントス」と玉砕の訓示を述べて自決する。
 翌7日、午前3時。全員「万歳」を叫びながら突撃を敢行、玉砕した。世に言うバンザイ攻撃である。
 その斎藤中将が最後に指揮をとったという洞窟に行った。崖の中腹にあり、かなり広い。洞窟の前面はテラス状になっており、錆びた機関銃が据え付けられたままになっている。崖の下には戦車と大砲が野ざらしになっており、筍を大きくしたような砲弾が転がっている。
 ガイドの男性は、その達者な日本語が物語るとおり、大の日本びいきで、日本軍将兵の勇敢さを称えるに言葉を惜しまなかった。とりわけ、斎藤、南雲両中将自決のくだりでは、あたかも 自分がその場に居合わせでもしたかのような口ぶりで、両将を こよなく褒めちぎっった。
 しかし、どういうものであろう。
 職業軍人としての美学からすれば、部下に死を命ずるに際して自らの死をもってするというのは、聞こえも良いし、名も残るには違いない。
 だが、専門的な訓練を十分に受けていない兵卒にしてみれば、指揮官が死んでしまったのでは、右も左も判らない。
 有効な戦い方も分らぬまま、やみくもに突撃しなければならぬというのも、ただ死ぬためだけに走るようなものであるし、敵の弾が、自分の体のどこに、いつ当たるのかも分らぬ恐怖というのは、大変なものであったろう。静かな洞窟の中で、心を定めて、イチ、ニノ、サン! と死ぬのとは訳が違う。
 私が一兵卒だったら、敵の弾の中を部下と並んで走り、最後まで心の拠り所になってくれるような上官に仕えたいと思うが、どうだろう。
 まあ、戦争を知らない私などが、修羅場の人々の言動を軽々に云々するのは控えなければなるまいが。
 
 サイパン島は、隆起準珊瑚島で、海岸段丘がよく発達している。
 主力玉砕のあと、残兵と民間人とが、米軍に追われてマッピ山頂へと追い詰められていったとき、前にはそうした段丘の作る崖が足元を抉って広がっていた。
 逃げ場を失い、次々と崖から身を投げる人々・・・。
 今、島民はこの崖を Suicide Cliff (自殺の崖)と呼んでいる。
 かろうじて崖を迂回し、下に降りることができた人たちも、そこに広がる平坦な段丘を、その先が海と知りながら進むしかなかった。
 再び追い詰められたとき、戦う術のない婦女子は、米兵による凌辱を恐れて次々と80メートルの断崖から身を躍らせ、男子非戦闘員も口々に「万歳」「万歳」と叫びながら足下の荒波に身を投じていった。必死で止めようとする米兵の声も、恐怖で逃げ惑う人々の耳には入らず、ある父親などは、我が子を海に投げ込もうとして米兵に射殺されるという有様であったという。
 こうして多くの命が失われた、現在バンザイクリフと呼ばれているこの崖に立ったとき、私は自分が新婚旅行に来ているのだなどという気分はさらさら無くなっていた。
 崖の縁に立ち、絶壁を吹き上げる風に煽られながらこわごわ覗き込むと、はるか下方に濃紺の海がうねり、こんなにも白い波があるのか と思うような、真っ白な波が 岩に砕けている。
 追い詰められ、身を投げ、自分の体が宙にあるとき、人の目にこの紺碧の海は、どう映ずるものなのだろう。
 眼前に広がる太平洋。空と海とをくっきりと分ける水平線。
 身動きできぬ思いで眺めていると、チャモロの子供が2人、話しかけてきた。何を言っているのか判らなかったが、屈託のない笑顔でなんとも可愛らしい。
 その子たちの笑顔と、荒波に向かって身を躍らせていった人々の姿とが、どうしても重なってこない。


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