グアムがジャングルだった頃(1)


横井庄一さんのこと

 新婚旅行はどちらへ、と訊かれることがある。
「上野動物園です」
 いつも、そう答える。
 1972年のことで、本当はグアムに行ったのだが、その頃は グアムだのサイパンだのという“海外”に行くというのは、それでもなかなかの贅沢であったから、自慢でもしているように取られるのが嫌で、そう答えていた。
 聞けば、このごろではグアム辺りは キャピキャピのギャルたちで溢れているという。この「キャピキャピの」という言葉は、自分で書いていながら 意味不明で、まあ、ルンルン気分の、浮かれた、というくらいのつもりで使っている。 若い女の子が慎みもなく騒ぎ回るようになった昨今、よく聞くようになった。
 ともあれ、彼女たちは金曜日の仕事が終わると成田に直行し、月曜日の朝 成田に帰って、そのまま何食わぬ顔で会社に出るのだという。
 そんなご時世に、新婚旅行はグアム島ですなんぞと答えたら、馬鹿にされるのがオチだから、今でもやはり
「上野動物園です」
 と答えている。
 といって、それがまったくの嘘というわけでもない。 当時はまだ成田空港というものはなく、飛行機といえば羽田という時代であったが、その羽田を朝早く出る便に乗るため、前の日に東京に出た。そのとき動物園に寄ったのは事実である。

 私たちは結婚式を挙げなかった。
 似合う筈もないタキシードなど着るのが嫌だったし、何よりも結婚を誓うべき特定の神を信仰していなかったからである。
 宗教は大切だと思うし、あれこれの教えから多くを学んでもいるが、自分自身はとくに何々教徒というわけでもない。
 神社仏閣に詣でると心洗われるし、確かに神も仏もおわすとは思うのだが、さればといって神道に依っているわけでもなく、仏教に帰依しているわけでもない。 外国で教会を訪ねて堂内に入ると、その荘厳な空気に思わず居住いを正すことが多いが、だからといってキリスト教に入信することもない。
 つまり、敬神崇祖の念は十分持ち合わせているつもりではいるが、といって、ホテルの庭にしつらえた偽教会でアルバイトの外人神父みたいな人に「ナンジハ ○○ヲショウガイツマトシテ アイシマスカ」とか訊かれて、「はい、愛します」などといい加減な嘘をつくのは、まあご勘弁願いたい というところである。
 結婚式を挙げなかった理由はただそれだけのことで、べつだん肩肘張って主義主張を通そうとしたわけでもない。
 だから、一応披露宴みたいなことは、やった。 披露宴と言ったところで、仲人がいたわけでもなし、ケーキカットをしたわけでもない。 市民会館のホールを借りて、ただワイワイ騒いだだけだから、費用も8万円しかかからなかった。
 同じ時期に結婚した同僚の披露宴が150万円で足りなかったそうだから、私たちのは、まあ、披露宴の名には値しない。

 さて新婚旅行だが、ろくに考えもせず、グアム島に決めた。 一番安く行ける外国だったからで、ほかに理由はない。
 それでも、いざとなると先立つものが無かった。1ドルが 280円の時代であり、今のように海外旅行が身近ではなく、旅行費用も 今では考えられないくらい高かったから、手持ちではとても足りない。
 仕方なく、ぎりぎり一人分の実費だけを搔き集め、私の分と現地での費用は銀行で借りた。
 当時は、グアムといえども 渡航には種痘が必要であり、コレラの予防接種まで要求された。ビザ、パスポート、国際運転免許の取得、ドルの購入と、どれをとっても手続きは面倒で、今とは隔世の感があった。
 それやこれやで追われているとき、新聞にびっくりするようなニュースが流れた。
 横井庄一さんという旧日本軍の伍長がグアム島で発見され、島の病院に収容されたというのである。
 周知のとおりグアム島は、太平洋戦争中、日本が占領して「大宮島」などという訳の判らぬ呼び方をしていた、激戦の地である。
 1944年6月、マリアナ諸島奪取を開始した連合国軍は、圧倒的な物量にものを言わせてサイパン島を攻略するや、7月には鉾先をグアム島に向けて攻撃を加えてきた。
 10日余りも艦砲射撃を続け、日本軍を水際から完全に後退させたあと、54,800の米軍将兵が易々と上陸。 これに対する日本軍守備隊 18,000は、洞窟陣地によって抵抗したが、いかんせん戦車と火炎放射器には抗し切れず、8月11日、小畑中将の自決と共に玉砕。 捕虜となった者わずかに 125名。 残存兵力 2,500名は、米軍のやっきの投降勧告をよそに、ジャングル内で執拗なゲリラ戦を展開した。
 その一人、横井さんが生きていたというのである。
 確かにグアム島のジャングルは深く、天然の食糧も多い。 海洋性の気候で、気温も通年27℃前後と、隠れ住むための条件は比較的整ってはいる。
 とはいえ、28年間である。 次々と仲間を失い、最後は1人になって、夜もおちおち眠れずに過ごした年月のどんなに長かったことか。
 生きて虜囚の辱めを受けずという戦陣訓を忠実に守り抜いた横井さんは、後日、祖国日本に送還された際、「恥ずかしながら、帰って参りました」と挨拶した。
 恥ずかしいものか。人生の半分を 実りのないジャングル生活に費やした横井さんは、紛れもない戦争の犠牲者である。 恥ずかしいのは、そうした兵士の存在すら考えずに暖衣飽食の日々を送っていた私たちの方ではないのか。
 私は、新婚旅行などという浮かれたことにグアム島を選んだ不謹慎さに 後ろめたさを覚えずにはいられなかった。

 天罰であろうか。東京行きの電車は、その朝どこかで脱線事故があったとかで、不通となってしまった。
 やむなく遠回りの私鉄に乗って、およそ新婚旅行らしからぬ超満員の電車でやっと上野の駅に着き、動物園でカバが糞をする様子など見ながら、時間を潰した。
 それでも 羽田空港に隣接したホテルに着くと、これがなかなかのもので、フロントマンは「お待ち致しておりました」などと人をくすぐる嘘をつくし、ボーイはきびきびと部屋まで案内してくれる。
 ふだん安宿にしか泊まらない私のこととて、こうして絨毯の敷き詰められた部屋に通されると逆に居心地が悪く、とりあえず靴を脱いで 心を落ち着かせねばならなかった。
 そのあと 部屋のあちこちを物色していると、最上階のレストランの案内が目についた。バンドの演奏もあり、飛行機の発着を見ながらの食事は悪くなさそうである。
 早速エレベーターに飛び乗ったところ、さすがに一流ホテルだけあって ボーイが乗っており、さすがに一流ホテルのボーイだけあって目ざとく私の足元に目を止め、さすがに一流の慇懃さで、こう言った。
「お客様、恐れ入りますが、靴を履いてからおいでくださいませ」
 案内された席は残念ながら窓際ではなく、夜景を楽しむにはやや不都合であったが、バンドに近く、折しも2人の女性歌手が もの静かな歌を聴かせているところであった。
 給仕がうやうやしくメニューを持ってくる。 英語とカタカナで書かれており、どちらもよく判らない。 スープからして何種類もあり、これは困ったなと思っていると、給仕はさすがに客のレベルを見るに敏な男で、
「これなどはいかがでしょうか」
 と、メニューの最後のページを開けて見せた。そこにはトロピカルなんとかと書いてあったが、これがまたどんなものなのか判らない。
 訊ねるといろいろ説明してくれたが、早い話がセットメニューで、あれこれ悩む必要がなく、つまりは田舎者向きということであろう。
 最後に、とても美味しいもので、是非お試しをと助け舟を出されれば断ることもできず、何より他の料理を選ぶのが面倒で、それを注文した。
 ワゴンで運ばれてきたものを見ると、なるほど南国風の、フルーツをふんだんに使った豪華なもので、テーブルの上には並べ切れず、横にワゴンを置いてやっと食事が始まった。
 味は無論申し分ないものであった・・・と思うが、実のところよく覚えていない。 それよりも食後の会計でいくら取られるのか、その辺が気が気ではなく、妻との会話も途切れがちであったように記憶している。

マゼランの地球一周

 グアム島への飛行機はダグラス社のDC8で、のっけから部品の故障で出発が40分ほど遅れるという。
 前日の列車事故といい、どうも幸先が良くないなと思ったが、飛び立ってみると、どうしてなかなかの乗り心地である。

 私は それまで結構いろいろな飛行機に乗っており、大小さまざまなヘリコプターも体験して、いっぱし飛行機通を気取っていたのだが、DC8は初めてであった。
 見物がてらトイレに行った私は、中で鶴のマークが織り込まれたハンドタオルを1枚失敬した。 当時の飛行機は至れり尽くせりで、一度乗るといろんな記念品が手に入った。とりわけ日本航空は優美な鶴のマークに人気があり、私も一時は日航グッズをずいぶんと持っていた。

 余談になるが、当時日航は世界一安全な航空会社 と言われ、尾翼に描かれた鶴のマークは 海外の空港でひときわ輝いていた。
 それが1972年のニューデリー墜落事故から 1985年の御巣鷹山墜落事故まで 立て続けに死傷事故を起こし、それと前後して経営の悪化が進んだ。2010年からはついに企業再建支援機構に厳しく管理され、元従業員の年金まで削られる情けない会社になり下がっている。
 その間に、長く「鶴丸」と親しまれてきたマークは 「太陽のアーク」を基調にしたとかいう味気ないものに変り、客室内のサービス品も次々と姿を消した。 思えば私が失敬したハンドタオルなどは、もし今持っていたら マニアの間で垂涎の的になっていたのではなかろうか。
 私は席に戻ると、妻に言った。
「すげえ、すげえ! 青い水が出る」
 妻が目を輝かせて席を立った。
「私も見てくる!」

 青く広大な海原に ポツンと島が見え、高度を下げるにつれてそれが大きくなり、やがて椰子の葉などが見えてきて、スルスルと 滑走路に滑り込む・・・とばかり思っていたが、実際には雲ばかりで海など見えず、やっと雲の下に降りたら、そこはもう 見渡す限り陸ばかりで、つまり、ちっとも島らしくない所に、飛行機は降りた。
 スコールの最中なので 暫く機内で待機するようにと言われ、窓の外を見ると、なるほどバケツの水をひっくり返すというのはこのようなことかと思われる、もの凄い雨が降っている。
 雨の向こうに椰子の木なども見え、確かにここは南の島だと思えてくる。
 ほどなく雨も上がり、機外に出る。 タラップを降りるとほんの30メートルほど先に、一応コンクリートでできた小さな平屋建てのターミナルがあり、歩いて行くと、入口近くにアロハシャツを着た男が立っている。 検疫カードを頭上にかざしているので、見せろということであると思い、バッグから出して手に持っていると、チラリと一瞥したが、これが検疫であった。
 こちらはそのカードを手に入れるためにいくばくかの費用をかけて種痘も受け、コレラの予防接種もしてきた。カードには それを証明する記述もある。せめて手に取るなりして、もう少し丁寧に見てもらいたいものだ。

 ホテルの窓を開けると、目の前にタモン湾が広がっている。
 何はともあれ海を見ようと、浜辺に出てみた。 波打ち際まで、無秩序に椰子の木が立ち並んでいる。
 改めて見ると、椰子というのはなんとも奇妙奇天烈な植物である。第一、木というのに枝がない。
 一口に椰子と言っても種類は 300を超える由であるが、この辺にはココヤシが多く、樹高は30メートルにもなる。根っこの周りは海水をたっぷり含んだ砂浜で、ときに幹を波に洗われたりもするのだが、いっこう動ずる風もなく、てっぺんまで水分を吸い上げる。 なんのことはない、巨大なストローで ズルズルと海水を飲んでいるようなものだが、それにしても、よくもまあ、あんな上まで水が揚がるものだ。
 誰でも、椰子の木を一度見たときには 無性に登ってみたくなるものだが、これはやめた方が良い。絶対に登れぬし、時々上から実が落ちてくる。グアム島でも、毎年2、3人が落ちてくる実に頭を割られて死んでいるということだ。
 膝まで水に浸かって歩いていると、プカリプカリと浮いている椰子の実にぶつかる。あっちにもこっちにも、数えたらいくつになるだろうか。

   名も知らぬ遠き島より
   流れ寄るやしの実一つ
   ふるさとの岸を離れて
   なれはそも波に幾月

 島崎藤村のこの詩を巡って、椰子の実が日本まで流れてくる筈がないとかあるとかいう議論を聞いたことがあるが、目の前に漂っている無数の実を見ていると、これは確かに潮流なんぞお構いなく、北極へでも南極へでも流れて行くに違いないと思えてくる。事実、宮崎あたりの海岸には時々漂着するということで、どうしてなかなか、たいした代物である。

 それに、そもそもそういう詮索自体がクダらないのであって、よしんば流れてくる筈がないとしても、だからどうだというのか。 空想はしばしば事実を超えて我々に幸福をもたらしてくれるではないか。
 私は、実の中はどうなっているのか という軽い好奇心から、ちょっと割ってみようと思い、足元に浮かんでいるやつを拾い上げて、近くの岩にぶつけてみた。 それは、ぼこんという鈍い音を立てて転がったが、見ると、傷ひとつついていない。
 私は 思わぬところで恥をかかされたような気分になり、今度は力いっぱい投げつけた。椰子の実に何の変化も起こっていないことを知った私は狼狽し、3度、4度、5度と、渾身の力を振り絞って、それを投げ続けた。
 いったい何度投げたのか、結局、表皮がいくらかささくれただけの実を捨てて ホテルの部屋に戻ったとき、私はすっかり無口になっていた。

 島内観光のバスがあるというので、乗ってみることにした。
 日本製の古びたマイクロバスで、十数人の乗客は すべて日本人。しかもその殆どは、一目で新婚旅行と判るカップルである。 私はうんざりして、よりもよって新婚旅行でこんなジャングルに来るなんて、どういう了見なのか気が知れないと妻に言った。妻は戸惑ったような顔をしただけで、返事はしなかった。
 ガイドも日本人、説明は勿論日本語で行われる。
 漠然と、全島ジャングルくらいに思っていたこの島にも、所々 町などあり、瀟洒な教会まで建っている。
 バスで巡る名所旧跡には、スペイン統治時代の砦だとか、太平洋戦争で戦闘が行われた場所だとか、つまり戦争に関する所が多く、呉海軍工廠で作られたという巨大な高射砲が並べられているのなどを見ると、この島が常に外国勢力によって翻弄されてきた歴史を否応なしに実感させられる。
 その一つ、ソレダッド砦の近くに、マゼランの上陸地点というのがあり、さほど立派とも言えぬ記念碑が建っている。

 マゼランが初めて地球を一周したというのは、つとに知られた歴史上の偉業であるが、その途次、グアム島に立ち寄っていることは、案外知られていない。
 もっとも、この“一周”という言い方は、ちょっとばかりインチキ臭い。
 1519年8月、5隻 200余名の船団を組んでスペインのセビリヤを出帆したマゼランは、南米大陸東岸沿いを南下して その南端にあるマゼラン海峡を発見、さらに太平洋を西進して、香辛料の宝庫 モルッカ諸島に到達した。
 このとき既に船は3隻に減っており、マゼラン自身もセブ島で原住民に殺されてしまったが、彼は 以前ポルトガル領インド総督の配下としてモルッカに行ったことがあるので、そのときの東進分を合せると 地球を一周したことになると称しているのである。
 マゼランが殺されたあと、生存船員がさらに西進して、1522年9月、ようやくスペインに帰り着いたが、その時の生存者はわずか18名。船も1隻であった。
 だから、その18名、わけてもその指揮者デル・カノこそ 地球一周を真に成し遂げた英雄と言ってよい筈なのだが、その名はなぜか、マゼランほどには知られていない。
 帰国までに 9割を超える船員が客死しており、それらの船員には家族もあったのだろうが、そういうことを語る歴史書には出合ったことがない。 歴史は、輝かしい人物については熱く語り継ぐが、その人間の功名心を支えるために死んでいった 一人々々のかけがえのない人生については一顧だにしない。
 それはさておき、その航海の途中に、98日もの間 島影ひとつ見ぬまま焦燥の旅を続けていたマゼランの一行が、偶然発見して欣喜雀躍したのが、グアム島であった。 1521年3月6日のことである。
 そのあとずっとスペイン領となっていたが、米西戦争の結果、1898年にアメリカ領になった。そんな訳で白人が多く住んでいるが、原住民は チャモロ族と呼ばれる褐色の肌をした人々で、チャモロ語を話すという。
 もっとも、現在のチャモロ語は、スペイン語を母体として フィリピンのタガログ語と古代チャモロ語がミックスされたものになっているそうで、それもだんだん使われなくなり、若い人の間では英語の方が通じるということだから、便利なようで一面淋しい感じもする。

広島~加古川歩き旅(2) グアムがジャングルだった頃(2)
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