いつもでない一日


億劫だと思ったときが勝負


 昨日、何をしましたか?
 そう訊かれたら、何と答えるだろうか。
 「別に・・・」
 昨日はどんな一日でしたか?
 「・・・いつも通りでしたけど・・・」

 昨日を先週と置き換えてみてもいい。先月、去年でもいい。
 「昨日は急に思い立って、庭に小さな花壇を作りました」
 「先週は佐原のあやめ祭りを見に行ってきました」
 「先月は中学時代の恩師を尋ねて、昔話に花を咲かせました」
 「去年は年来の夢だった北海道一周のドライブをしました」
 そういう返事が間髪を入れず出てくるようなら、それは昨日、先週、先月、去年が「いつもでない」日、週、月、年だったということであろう。

 今日という日を「いつもでない一日」にしたい。永年そう思い続けているが、この「いつもでない一日」という言葉。私の言葉ではない。
 昭和45年に放送されたNHKのドキュメンタリー番組のタイトルをそのまま借用しているわけで、いくぶん気が引けるものではある。
 しかし、心の琴線に触れ、信条として抱き続けて40数年を経ていることであるから、もはや自分の言葉と錯覚して使っていることも許されるのではないかと思っている。
 その番組は、北海道北見北斗高校の伝統行事「強行遠足」の一日を追ったもので、歌手の和田アキ子さんのナレーションと、生徒たちが歩きながら歌う「Rock My Soul」の歌声が今でも耳に残っている。
 同校の強行遠足は昭和7年に始まり、放送の年には37回目、昨年(平成27年)には83回を数えている。距離は昭和18年の102kmを最長として何度か増減を繰り返し、放送時は男子70km、女子37kmであった。昨年は男子71km、女子40kmだという。
 スタート時間は男子が午前4時、女子が5時というから半端ではない。前日は早く寝ることになろうし、翌日は疲れでクラブ活動にも影響が出るだろう。つまり3日間は「いつも通り」の生活はできないということになる。

 さてこの番組を観た私は、大きな感動を味わうと同時に、焦りにも似た衝動にかられた。
 実は高校時代、山梨県の甲府第一高校で大正13年から続いているという強行遠足のことを知り、歩くという行動に強い憧れを抱くようになった過去がある。
 ワンダーフォーゲル部に所属していたということもあり、日頃から歩くことには慣れていたが、甲府一高の全生徒が制限時間(24時間)内に100kmを歩くというスケールには度胆を抜かれ、その後は歩くという行為に「距離」という要素が加わって、電車で行ける所にわざわざ徒歩で行くという、あまり意味のないことも繰り返すようになった。
 たとえば大学時代には、高校時代の友人たちと飲むために大晦日の晩に自宅を出て、63km先の友人宅まで歩き、一晩飲んでまた63kmを歩いて帰るという馬鹿なことを毎年やっていた。
 広島から東京まで歩こうと、平和公園で野宿をしたあと勇躍出発したものの、計画の三分の一、270km歩いたところであえなく挫折した話はほかでも書いた。
 そのほか、どこからどこまで○○kmというような歩きもずいぶんした。
 というわけで、長い距離を歩き通すということにそこそこの経験と関心を持っていたところで出遭ったのが、件のドキュメンタリー『いつもでない一日』である。

 衝動にかられた私は勤務先の高校で、我が校でも甲府一高・北見北斗高校に負けない強行遠足をやろうと提案した。一も二もなく賛同すると思った周囲はまったく興味を示さず、歯ぎしりする私を嘲笑うように10年が経った。
 業を煮やした私は勝手に生徒に呼びかけ、とにかく先ず歩いてみようと参加者を募った。距離は散歩に毛の生えた程度の8km。予定された日曜日、あいにくの雨。集まった生徒は14人。
 ずぶ濡れになって歩いたあと、私は生徒に言った。
 「今日の経験を基に、うちの学校でも強行遠足を始めよう。最初は短距離でもいい。少しずつ延ばして、いつか北見北斗高校の70kmを超える。甲府一高の100kmを超える。つまり日本一だ。テレビでも流されるだろう。そのとき、この強行遠足は俺たちが始めたんだと言ってやろう」
 少しずつ賛同する同僚も出てきて、ついに第1回の大会が実施された。
 「強行遠足」「競歩大会」「歩け歩け大会」・・・、いろいろな名称が挙がったが、とりあえず「競歩大会」となった。距離は12km。競歩とも強行ともいえぬ距離であるが、まずは実現した。あとは毎年距離を延ばしていけば・・・。
 数年後に24kmになった。コース途中にある小学校を休憩所として使わせてもらった。そして34km。コース上に工事現場などで使う仮設トイレを設置した。だんだんノウハウも整ってきた。

 ところが、同時にさまざまな問題が起こってきた。
 まず大会当日の欠席者が年ごとに増えてきたのである。しんどい、面倒くさい、というのが理由であった。
 私は、口を極めて生徒たちに話しかけた。
 「君たちが親になったころ、我が校の競歩大会は日本一になるだろう。テレビで放映されたときに、子供に自慢してやれ・・・、この競歩大会はお父さんの在学中から続いているんだぞと」
 「テレビを観た子供が『これ、お父さんが出た学校だよね。お父さんも歩いたの?』と訊いてきたとき、何と答える? 『そうだよ、お父さんも最後まで歩いたんだ』と答えたいじゃないか。それとも『そうだけど、お父さんはその日は欠席したんだよ』と答えるか?」
 私の話に奮起する生徒はほとんどなく、欠席は増える一方だった。
 渋々参加する生徒にしても、途中で待機する落伍者搬送用のバスに我先に乗り込んで、元気いっぱいで学校に戻ってくる始末だった。

 次の問題は、運動部の生徒たちがいち早く大会役員として名乗りを上げ、チェックポイントやゴールでのスタンプ押しに回ってしまったことだ。
 私の頭には、各部の生徒たちが部旗でも掲げてそれぞれの意気を示してくれるイメージがあったのだが、彼らの論理では競歩大会なんぞで練習の時間が削られるだけで迷惑なのに、いつもと違う運動で疲れたのでは、試合に差支えるということらしかった。

 そして私が切歯扼腕した問題は、教員たちの中に、これ以上距離を延ばすと、その日の勤務が退勤時間を過ぎてしまうという不満を漏らす者が何人もいたことである。
 いつもの時間に帰れない。
 それが何なんだ? 「いつも」がそんなに大事なのか。いつもでないから記憶に残るんじゃないか。

 かくかくしかじかで翌年、距離は18kmに縮まった。以来この18kmが定着し、私の退職まで続いた。3時間程度で全生徒がゴールしてしまい、ゴールした者は三々五々下校となる。つまり、「いつも」よりずっと楽な一日になったのだ。
 教員の中に、いつもより早く帰れることを喜ぶ者が出てきて、ある教員が私に言った。
 「生徒も半分以上帰ったのだから、なにも教員が全員残っている必要はないでしょう。自由退勤にしましょうよ」
 「なにを馬鹿な! まだ何百人もの生徒が歩いている。それをどうするんだ?」
 「あなたが残っていれば十分でしょう」
 その教員は豊富な知識を持つ、私が一目も二目も置いている教員だったから、私のショックと絶望感はひととおりではなかった。
 卒業生が子や孫に自慢できる日本一の競歩大会を・・・という私のもくろみはこうしてあえなく瓦解した。私自身の意欲も萎え、ただ年中行事の一つを消化するというだけの一日になってしまった。

 いったい、「いつもと違う」ということがそんなに面倒なことなのだろうか。
 いつも通りに日を送ることが、そんなに大事なのだろうか。
 競歩大会をさぼって家でごろごろしていたとして、それで何か収穫があるのだろうか。
 収穫なんかいらない。楽な方がいい。そう答える生徒に、いつもでない一日を何年、何十年も覚えている北見北斗高校の生徒たちをどう思うか訊いてみても、「関係ない」という返事しか返ってこない。やはり人はそれぞれで、一度しかない人生を充実させようなどというおせっかいは迷惑なのだろう。
 馬を水辺に連れて行くことはできても、馬に水を飲ませることはできない。
 せいぜい自分が、「いつもと違う一日」を面倒だと思わないように心がけてゆくぐらいで妥協した方が良さそうだ。
 いや、いつもと違う一日を作るにはどうしても面相がつきまとうものだから、面倒だと思わないというのは無理だろう。せめて、面倒だと思ったときが踏ん張りどころだ、億劫だと思ったときが勝負だという気持ちを失わないようにしていきたいものだ。

 
      
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