ハッタリの功罪


『ふうらい坊留学記』に学んだこと


 高校の頃、『ふうらい坊留学記』という本を誰かに借りて読んだ。
 安川実という人がシンシナチ大学に留学して、ジャップと呼ばれながらもハッタリと度胸でアメリカ人に伍してゆく体験記である。
 光文社の「カッパ・ブックス」という新書版シリーズの1冊で、私のような劣等生にも取っつき易い平易な本だったのが幸いして、一気に読み終えた。
 当時は海外旅行が自由化されておらず、無論私も日本を出たことがなかった。それがその本を読んで以来、死ぬまでに一度は外国、それもアメリカに行ってみたい、と憑かれた如く口走るようになった。
 後年海外旅行が自由化されて念願は叶ったが、そのきっかけは紛れもなくあの本であったと思う。
 その意味で、私に大きな動機を与えてくれた本であった。
 それだけではない。生き方、と言っては大袈裟になるが、その本から私はささやかながら一つの信条のようなものを学んだように思う。
 日本人蔑視の風潮が残るアメリカの田舎で、弱みを見せまいとハッタリを通した若者の姿から、私は大きな刺激を受けた。
 書かれた内容はこんな具合だ。
 著者は、なにか相手から「できるか?」と訊かれると、間髪を入れず「もちろん!」と答える。「できない」とは決して言わない。
 傑作な話が載っている。地元のラジオ番組に呼ばれたとき、意地悪な司会が「今からミッキー(安川さんの呼び名)がフランス語で歌います」と言ってしまった。著者はすまして日本語で歌った。シンシナチの田舎でフランス語や日本語を知っている人はおらず、皆それがフランス語だと思って聴いていた・・・。
 そんな話が満載のその本を読みながら、私は、我が意を得たりの感慨に浸った。
 子供の頃から調子者で何にでも「尻込みしない男」を気取っていた私は、その本でちょっとばかり自分を肯定されたような気分も味わい、ますます調子に乗ったように思う。
 安川さんのハッタリとはスケールが違うが、「むずかしい」「できない」という言葉を口にするのは男として見っともないと思う気持ちはさらに強くなった。それに、そんな言葉を使ったら、せっかく与えられたチャンスを逃すことになるということも学んだ。
 もう時効であろうから白状する。
 私は教員としての採用面接で、日本史を得意とする旨アピールしたが、突然「商業科の科目で商業法規を教える教員が足りない。できるかね?」と訊かれた。一応法学部ではあるが、商業法規は面白くなく、最低の単位しか取っていない。
 一瞬困ったが、そんな場面での返事は一つしかない。
 「無論できます。私は法学部です」
 そのせいかどうかは分からぬが、なんとか採用され、42年間に亘る教員生活がスタートした。それからの2年間というものは、商業法規の授業の前夜はときに徹夜での予習を余儀なくされた。苦しかったが、あのとき「できません」と答えていたら、その後の教員生活はなかったと思う。
 また、県内の教員十数名が毎年ヨーロッパ視察というのに出かけていて、私の勤務校からも先輩教員が選ばれた。まあ特に優秀でなくても、校長の強い推薦があれば高い確率で選ばれるようであった。
 数年後、学校からまた誰かを推薦するということになり、校長から適任者は誰かねと意見を求められた私は、即答した。
 「それは勿論私です」
 「え? 君か? だって君は英語の教員じゃないだろう。視察先の学校では英語でやりとりしなきゃいけないんだよ」
 「大丈夫です。私はペラペラです」
 そのせいでもあるまいが、なんとか選ばれ、14日間の「欧州教育事情視察団」というのに潜り込んだ。ペラペラというのはウソで、本当のところは「ペラ」ぐらい、いや「ペ」ぐらいであったが、本当のことを言えば選ばれないのは分かっていたから、ほかに言いようがなかった。
 それに、御大層な団名とは裏腹に、実際は観光ツアーに毛の生えたようなものであったから、英語を使う場面は殆どであったなかった。なにより団員の中にいた英語教員たちのレベルは信じがたいほど低くて、「ペ」しか喋れない私が通訳をしたくらいであったから、私のついたウソもバレずに済んでしまった。
 その5年後、今度は中国視察の話が出た。
 「それは勿論私です」
 「え? また君か? さすがに中国語は無理だろう」
 「いえ大丈夫です。私は第二外国語で中国語をやりましたから」
 これは真っ赤なウソだった。中国語なんて、シェシェとクーニャンしか知らない。
 それでも「できません」とか「むずかしいです」という返事はしないというのが『ふうらい坊留学記』から学んだ処世術であり、それは体に染みついていたから、度重なるウソにも罪悪感はなかった。
 校長が私のウソに騙されたとも思えぬが、それでも「ナントカ友好訪中団」の一員として16日間の“視察旅行”をせしめた。そして世間で言うところの「視察」という言葉に比べれば私のウソなどはちっぽけなものであることを再認識した。
 これらは分かり易い例として述べたものだが、何にせよ、「できません」と言ったらその話はそこで終わってしまう。できもしないのにできると答えた場合は、その後に塗炭の苦しみが待っているが、できませんと言ったら先がないのだから仕方がない。
 のちに心ならずも教員たちに仕事を割り振る立場になった私は、人を見るのに自然とそういう物差しを使っている自分に気が付いた。
 そういう目で見ると、何を言いつけられても必ず「えー?」とか「私がですか?」と言う者のなんと多いことか。
 「ちょっと今、別のことにかかっているんで・・・」
 「私、それはやったことがないんで・・・」
 「私の担当じゃないですが・・・」
 「えー? これ、大変ですよ・・・」
 最後まで聞かずに私は言う。
 「そうか。それじゃあ別の人にやってもらおう」
 その後、そんなに良い仕事でもそいつにやらせないことは言うまでもない。
 当方も無駄飯を食いながら長い年を経ている以上、相手が「暇を持て余していて、しかもその仕事を得意としている」などという都合の良い状況にないことぐらい百も承知の上である。できればやりたくないというのが本音だということもよく分かっている。
 その上で割り振るのだから、こちらにも悪いという気はある。それを二つ返事で引き受けた相手に対しては感謝の気持ちも湧くし、なにかと取り立てていこうという気にもなる。偉そうに言うならば、戦力として計算できるという評価にもなる。

 何か言いつけられたり頼まれたりしたら、四の五の言わずに引き受ける。
 『ふうらい坊留学記』から学んだそのスタンスは、いつしか信条となり、行動規範となってきた。それを良しとしてくれる人たちから引き立ててももらった。
 間違ってはいなかったと思うし、これからも多分そう心がけていくと思う。

 だがそれは当然の結果として、意に染まぬ仕事を次々と押し付けられるもとにもなる。
 仕事だけなら忙しい思いで済むが、たいていの場合は火中の栗を拾わされたり、泥をかぶらされたりして、夕飯も進まないほどいやな思いをする。
 自分は些細な理由で逃げておいて人に損な役割を押し付けた連中は、ことが厄介な展開を見せ始めると、たちまちその責任を重ねて押し付けてくる。
 おかげでこちらは永年の友を失ったり、作らなくていい敵を作ったりすることになる。

 そして今、私は地域の雑用に追われる身になっている。
 最初は小さなことを依頼された。
 「○○委員をやっていた人が急な事情でやれなくなった。今すぐと言っても引き受け手がない。名前だけでもいいから貸してもらいたい」
 わざわざ自宅まで来て頭を下げている人を追い返すわけにもいかないから承知した。退職して曜日に関係のない生活をしている身でもあり、多少の自由を失うことぐらいは仕方がないとも思った。
 すると、名前だけどころか、ナントカ協議会の理事だのナントカ会議の役員だのという肩書がセットでついてきて、たちまち手帳が真っ黒になる生活に戻ってしまった。
 さらにあれをやれこれをやれという話が続いた揚句、ある厄介な役割を強要されることになった。その言い草がいい。
 「これはという人、十数人に当たったが全部断られた。もうめぼしい人はいない。ついてはあなたに引き受けてもらいたい」
 真っ先にあなたの所に来たというならともかく、もうめぼしい人がいなくなったからあなたの所に来た、と言われて冥利に感じる者がいるだろうか。
 要するに「あいつだったら断らない」と踏まれただけのことである。
 頼まれたら断らない、という信条を永年抱き続けてきた結果の評価はそういうことだったのだ。
 私は、断ったという十数人の理由を訊いてみた。そして言った。
 「その理由、全部私に当てはまりますよ」
 すると相手は言った。あなたからそんな理由を聞いたことはない、と。
 確かにその通りであるが、憚りながら私だって暇を持て余しているわけではない。無論、有り余る能力がうずいているわけではない。全身これ健康体の見本というわけでもなく、体のどこを見ても老化を感じぬ箇所はない。
 ただ、そういうことを人前で言わなかったというだけである。
 相手だって、私がそんなスーパーマンみたいな人間だと思っているわけではなく、あれこれ逃げ口上を並べることを潔しとしないことにつけ込んでいるだけのことである。
 結局、引き受けさせられた。
 頼むときには「我々も手伝うから」などと言った人たちが、その後そんなそぶりを毫も見せないのは言うまでもない。

 長々と述べたが、『ふうらい坊留学記』で学んだ生き方は、私の人生で大きなエネルギーとなっている反面、「なんでこの俺が・・・」と思う損な結果を次々と招く元にもなっているわけで、自分の子供たちに迷わず勧める生き方とは言いにくい。
 思えば私ももう、いつ死んでもおかしくない年齢である。そろそろ「断り下手」を卒業して三年寝太郎か仙人のような、なにものにも追われることのない毎日を送ってみたいと思わないでもない。
 ではあるが、もしそうなったら、それはそれでちょっとばかり寂しいことかも知れない。
 凝りもせず、そんな風に思ってしまうのは、やはりあの『ふうらい坊留学記』の魔力からいまだに解き放たれていないということなのであろうか。

追記:
 借りた本は、その後どうなったか、記憶にない。
 返した覚えはないのに手元にない。また貸ししたのか、あるいは何度かの引っ越しで紛失したのか。
 十年ほど前だったろうか、無性に読み返したくなり、あちこち探した。図書館、古書店、そして無論のこと出版社にも問い合わせたが、どこにもなかった。
 諦めかけたとき、次男がネットで探せば見つかるよと言って、いとも簡単に取り寄せてくれた。誰かがネット通販に出品したもので、多少汚れていたが、そんなことはどうでもよい。
 ところが読んでみると、高校生のときには気づかなかった「嘘」がずいぶんと書かれている。
 寝ているところを襲われ、肩口をナイフで刺された。そのナイフが刺さったまま犯人を探し、ズボンのベルトで首を絞めてやった。そのときは周囲に止められたが、翌日その男を見つけてコーラの瓶で頭を打ちの飯、そのまま引きずって3階の窓から地上に放り投げた。
 そのほかにも、当然殺人未遂で逮捕されるようなことが何度も出てくるが、どれも昔の日活映画もかくやというほどの“痛快な”アクションがふんだんに盛り込まれている。
 凶器を持った多数を相手の乱闘でも、相手の攻撃をどうかわしてどう反撃したかという流れが克明に書かれていて、しかもその最中の野次馬の罵声までも細かく再現されている。
 肉がどう砕けて血しぶきがどのように飛んだかというようなことも、さながらスローモーションで再生された動画のようだ。
 しかし、そんな「あり得ない」話を改めて読んでも、それで私の気持ちが冷めたということはない。
 事実を事実のままに書いた、つまり「地味な話」だったら、高校生の私はあんなに影響されなかったであろう。
 安川実さんが、それこそハッタリで書いた嘘が、私を大きく動かしてくれたのだということは間違いないわけで、そういう意味でもあの本は、紛れもなく私にとっての「人生を変えた本」であった。

 
      
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