この言葉、なんとかなりませんか(8)


お・も・て・な・し



 自分が他人のために何かをするとき、心すべきは「さりげなく」ということであろう。
 相手に対して「・・・してやる」という意識は持ちたくないものだし、ましてそれを口に出して言うなどは野暮の極みである。

 さきごろ、オリンピックを東京に招致しようという場でのプレゼンテーションが話題になった。
 猪瀬東京都知事が中学生のような英語で演説をした。英語が下手なことは別段恥じることではない。外国語なのだから、上手く喋れなくて当たり前だ。ただ、事前に練習を重ねたジェスチャーがいかにもぎこちなく、引きつった作り笑顔とともに失笑を買った。

 その点、滝川クリステルというタレントの喋りは流れるようで、動きも自然であった。そのフランス語が上手かったのか下手だったのか、私にはまったく判らないが、フランス生まれで、父君はフランス人だそうだから、おそらく流暢なものだったのだろう。
 それはいいが、内容がいけない。
 私たち日本人は「おもてなしの心」を持っていますと強調し、オリンピックが東京で開催されれば、日本人はこぞって外国からのお客様をもてなしますと繰り返したのである。
 言うまでもないが、遠来の客をもてなすのは日本人に限ったことではない。外国で日本人がもてなしを受けるのは普通のことであるし、所によっては財産ともいうべき羊を客のためにさばいて提供したりすることすらある。
 逆に外国人を嫌がる日本人は沢山いるし、嫌ではなくても言葉の壁から外国人との接触を避けたがる人も多い。
 そう、「おもてなしの心」は日本人だけが持っているものではないし、日本人全員が持っているものでもないのだ。
 それなのに、それをあたかも日本人の最大の特性であり、日本人だけが持っている特性であるかのように述べ立てたのでは、対立候補のトルコやスペインだった面白くないだろう。
 トルコだってスペインだって、オリンピックが自国で開催されれば最大限のもてなしで外国人を迎えるに違いないのだから。

 そもそも、「これからあなたをもてなしますよ」と言われたら、どんな気がするだろう。
 「あなたに親切にしてあげますよ」「あなたを助けてあげますよ」「あなたにご馳走してあげますよ」などと前置きされたのでは、折角の好意が曇って見えるし、ときには恩着せがましく感じられたりもする。
 相手のために何かをするときには、「さりげなく」相手の負担にならないようにするのが粋というものであろう。
 それを自慢げに、わざわざ「お・も・て・な・し」などと区切って、相手に覚えさせようという姿勢は、それこそ「日本人の特性」から遠く離れたものではないだろうか。
 
      

いい加減にしてくれませんか(2)  人生の主役 
     
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