たった一人の自分


流行という名の猿真似



 地球上、どこを探しても、自分という人間は一人しかいない。
 過去をどこまで辿っても、未来をどんなに見つめても、自分という人間は一人しかいない。 

 それなのに、その自分を他人と同じ色に塗ろうという人たちの気が知れない。
 若い人たちの言葉使いを聞いていると、ラ抜き言葉にしても語尾を上げる喋り方にしても、皆同じだ。 
 ~してもらうことってできたりしますか? などという回りくどい言い方、大丈夫、因みに、などという言葉の誤用、カワイイーに代表される語彙の貧弱さ、等々、皆同じである。
 正しい語法が他の人と同じというのは当たり前で、それは良いことであるが、間違った語法が他と同じというのは、何も考えずに人の真似をしている証拠である。
 言葉、それも無知で浅薄な人の言葉を皆が真似ている状況については、他の稿で繰り返し述べているので今回は取り上げないことにするが、見かけ、即ち化粧や服装、持ち物などについても人真似が氾濫しているので、今回はそれについて苦言を呈したい。

 いつだったか、紺のブレザーにジーンズのズボンという女性を見かけた。その斬新さに感心したものだが、その直後、同じスタイルが街中に溢れていることに気が付いた。誰かの着こなしを猫も杓子も真似た結果に他ならない。
 紺のブレザーにジーパンという組み合わせは、当時の人たちが普通に思いつくものではなかった。凡百があっと驚く意外性で人目を惹き、しかも改めて見てもなかなかのバランスであった。
 そう、気の利いた意外性はお洒落の一つの要素である。しかし、それを真似て誰も彼もが同じ格好をしたとき、その魅力は激減する。猿真似にはお洒落の要素が毫もない。
 昔、ある芸能人グループがステージで“つなぎ”を着て歌った。その意外性に観客は目を見張ったが、そのあと街中に“つなぎ”が氾濫した。
 ある人気男性歌手が前髪の一部を極端に長くしたところ、高校生がこぞって真似をして、我々教員はそれを切らせるためにずいぶん忙しい思いをした。
 高校生といえば、長いスカートが流行ると日本中の高校生がスカートを長くし、短いスカートが流行ると日本中セーラームーンみたいな高校生ばかりになる。教員たちはモグラ叩きのように生徒を追い掛け回す。

 繰り返すが、他と同じ格好では人の目を惹きつけることはできない。
 ソフィア・ローレンという大女優がいる。若いころはスタイル抜群で、世の男どもはよだれを流しながら映画館に通ったものだ。その大女優があるとき映画祭だか何だかで、これまた体の曲線が売り物の人気女優ジーナ・ロロブリジーダと顔を合わせた。
 驚いたことに二人の着ていた白いドレスはデザインが酷似しており、周囲にはざわめきが起こった。すると二人は何食わぬ顔で座を外し、再度現れたときには二人ともまったく違ったドレスを着ていた。
 これは当時の有名な話であるが、やや出来過ぎたきらいもあり、作り話かも知れない。しかし、人と同じでは自分のプライドが許さないという、当代きってのお洒落な二人の在り様を雄弁に物語っている。
 先に述べたグループ歌手も、街中に“つなぎ”が流行るとさっさと衣装を替えてしまった。前髪の長い歌手も、それが流行ると惜しげもなく髪を切り、さっぱりした髪形に変えた。
 皆と同じであることを潔しとしない矜持がそこにある。
 昔々、私が高校生だったとき、1級上の女子学生にお洒落な人がいた。制服は紺のセーラー服であったが、彼女は同じデザインながら黒であつらえたものを着ており、かなり目立った。当時公立高校の制服というのは“標準服”という位置付けで、強制はされなかったらしいから、先生方もそれを黙認していたのだと思う。とはいえ、制服というのは“皆同じ”ことを旨とするものであるから、先生方としてはさぞかし苦々しい思いであったろう。
 私の教員時代にも何度か短いスカートが流行って、毎日そういう生徒を叱ったり買い直させたりするのに明け暮れたことがある。そのとき一人の生徒が極端に長い、くるぶしに届くようなスカートをはいて登校してきた。あまりにも長いのでそれを注意したが、聞かない。 その生徒に翻弄されるような日が続いたあと、何を考えたか、あっさりと退学してしまった。手を焼いた生徒であったが、たった一人しかいない自分を他と同じにすることを拒む心意気が感じられて、憎めない生徒であった。
 その後まったく音信不通であったが、風の噂でかなり活躍していると知ったときは、むべなるかなと思ったものである。
 黄色い服が流行れば街中黄色。白い服が流行れば街中白。流行に乗り遅れまいと食を削っても新しい服を買う。その流行とはいったい何だろう。
 誰も着ない服を着ても、それは流行とは言わない。大勢が同じだから流行という。つまり、大勢の人がやっていることを真似るから“流行に乗った”と言えるのだ。
 つまり、独創的な服や髪形ではなく、人真似をするから流行なのだ。聞けば服飾の世界での流行色というのは2年前に決まっているのだともいう。
 メーカーにしてみれば、人々が同じ服を何年も着ていたのでは売上が伸びない。だから毎年服を買い替えてもらわねばならぬ。それには年毎に流行が変わるというのはありがたい。しかし、流行り始めてから生地を生産したのでは間に合わない。染め、織り、裁断、縫製となると1年は欲しい。といって、当てずっぽうで製作にかかってその色が流行らなかったら大損になる。
 そこで、業界が示し合わせて色を決め、巧みに宣伝して2年後の流行を作り出す。
 その企業戦略にまんまと乗って大金を使うのが、訳も分からず猿真似に狂奔する大衆という図式なのである。
 もう20年くらい前になるだろうか、ガングロと呼ばれる馬鹿丸出しの少女たちが街に溢れた。これはもう、それがどんなものであるかをここに書くのも憂鬱なので省略するが、私はどうやったらああいう馬鹿が生まれるのか、どうやったらああいう馬鹿に育つのか、ああいう連中がやがて母親になるとしたら日本はこの先どうなるのか、と天を仰いだ。
 あの連中を全部絶海の孤島に隔離してそこで生涯を送らせれば、少なくとも馬鹿の遺伝子が拡散されることはないだろうと本気で考えたものだ。
 化粧や装身具、服飾の馬鹿さ加減も筆舌に尽くしがたいが、それをたちまち真似て悦に入っている個性のなさはもっと問題である。

 ああ、いやになってきた。流行という名の猿真似にうつつを抜かしている連中、周りがやれば意味も考えずに真似をする連中に何を言っても無駄だろうから、もうこの稿は終わりにする。
 ただ、そうではない少数派の若者に言っておきたい。
 人にはなぜ一人ひとり名前があるのか。それは一人ひとりが、隣りの人とは違う存在だから、一人ひとりを区別するための手段として必要なのである。鉛筆や野球のボールに一本一本、一個一個名前はつけないだろう。それは“この鉛筆と隣りの鉛筆”、“このボールと隣りのボール”を区別する必要がないからである。
 人間だって、猫も杓子も隣りと同じになろうというのなら、わざわざ名前をつけて区別する必要はない。「人間」と呼べば済むことである。
 最後に、小さな思い出を一つ。
 2月14日になると、バレンタインデーとか言って、日本中の女子高生がチョコレート配りに狂奔する。教員たちはそういう生徒たちから次々と意味もなくチョコレートを貰って処分に困っている。
 私は教室で、バレンタインデーというのはどういういきさつでできた日なのかを訊いてみた。その日のいわれを正確に知っていた生徒は一人もいなかったが、チョコレートを買わなかった生徒も一人もいなかった。
 私は意味も分からず付和雷同してチョコレートを配る愚を説いた。
 にも拘わらず、その後も次々とチョコレートを持った生徒が職員室にやってきた。私は声を荒げて受け取りを拒否した。
 すると一人の生徒がニヤッと笑って言った。
「開けてから文句を言ってください」
 きれいにラッピングされた箱を開けてみると、そこには瓶詰の塩辛が入っていた。むろん塩辛とて意味はないのだが、そこには「私は他の人とは違う」というメッセージが込められていたのではないかと思う。
 チョコレートを誰から貰ったかはとうに忘れてしまったが、塩辛をくれた生徒のことはまだ覚えている。
     

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