究極の一人旅


極楽浄土までとぼとぼと



 旅はどんな形であれ、楽しい。
 見知らぬ人同士が空港で初めて出会って、何日かを共にする。お喋りな人、よそよそしい人、皆同じバスに乗って、同じ城を見て同じ教会を見て、あげくに同じ土産物屋に連れていかれて・・・ツアーと呼ばれるそんな旅のどこが楽しいのか、という人がいるが、なに、十分に楽しい。
 気の合った仲間とワイワイ馬鹿を言いながらのドライブ、子供に振り回されながらの家族旅行、夫婦二人だけのケチケチ旅行。どれも至福の時間を享受できる。

 一人旅もまた、捨てがたい。
 同じ所に何時間いようが、何日泊まろうが、誰に気兼ねもいらない。寄り道、回り道はし放題だ。
 もっとも、さすがにいわゆるグルメ旅は、一人ではつまらない。
 一人旅ではもっぱら節約を旨としているが、それでも行程の都合からそこそこの場所で食事をすることもある。仲居さんが次々と料理を出しながら、「○○の△△でございます。こちらの××をつけてお召し上がりください」などといちいち説明してくれる。
 そんなとき、連れがいれば、初めて食べるよとか、テレビでしか見たことがないよとか笑いながら箸が進むが、一人では「ほー!」とか「なるほど」などと調子を合わせるのが一仕事だ。あとは黙々と食べるだけ。
 テレビのグルメ番組などでは、レポーターの芸能人が悶絶せんばかりに身をよじって料理の味を絶賛するが、私にはとうてい理解できない。どんなに美味しいものを食べても、それで目をつぶったりはしないし、天を仰いだりもしない。
 だからというわけでもあるまいが、支配人や、ときには料理長などが「お味はいかがでしょうか」「お気に召しましたでしょうか」などと訊きにくることもある。
 仲間でもいれば、「明日からまた女房の料理に戻ると思うと、ぞっとしますな。アハハハ」などと冗談も言えようが、一人客として食べている場面ではそれもしらける。
「いや、まことに結構で」
くらいが決まり文句で、あとはまた黙って食べるしかない。
 一人旅の食事は粗食に限る。
 路地裏の食堂でビールを飲みながら柳川鍋でもつつくというのは悪くない。漁港で山かけというのも落ち着く。海辺に車を停めてカップラーメンで缶ビールを飲んでいるときは忘我の郷だ。
 ということは、安いものを食べながらの一人旅が一番性に合っているということになる。
 では、何を好んで一人で出かけるのか。孤独を求めてのことか。
 否。孤独では一人旅はもたない。
 旅先で美味いものを食べると、子供に食べさせたいと思う。きれいな景色を見ると、妻に見せたいと思う。旅好きの友人に教えたいと思う穴場、探鳥が趣味の知人に訊いてみたい鳥の名・・・、きりがない。
 かく、一人旅ではいつも人のことを考えている。帰る場所があっての一人旅だ。未知の場所への旅も帰ってくるアテがあるから出かける気にもなるが、行きっ放しとなれば足が出ない。

 さて、人はいつか、究極の一人旅に出る。極楽浄土への旅がそれだ。
 今私たちが暮らすこの世は釈迦牟尼のおわさぬ無仏陀の世界であり、釈迦の後継者と目される弥勒菩薩が仏陀となるのは56億7千万年先だということであるから、私たちが生きている間に五濁にまみれた日々を脱することはできそうにない。
 一方、極楽浄土というのは阿弥陀さまのおわす清らかな所で、池にはいつも蓮の花が咲いているという。そこに行けば既に死に別れた父母兄妹にも会えるそうだ。苦界穢土と呼ばれるこの世とは違い、争いも迷いもない平和な世界だそうで、旅の目的地としてはこれ以上の場所はない。
 では、その極楽浄土というのはどこにあるのか。
 話に聞けば、西方十万億土のかなたにあるのだというが、十万億土とはどのくらいの距離なのだろう。
 文字通りの意味としては、仏国土(1人の仏さまが治める国)を十万億(10兆)カ国通り過ぎた所ということになる。それでは一つの仏国土とはどのくらいの大きさなのかというと、いろいろな人がいろいろな計算をしているが、大体銀河系の大きさぐらいではないかという見方をする人が多い。
 銀河系の直径はおよそ10万光年と言われているから、それを十万億越えて行くとなると約100京光年。
 それだけの距離をたった一人で旅しなければならないわけで、なんだって阿弥陀さまはそんな遠くにお住まいなのだろうと思う。
 そんなに遠くなら、途中の仏国土のどれか一つで妥協してそこに住み着いてしまおうという怠け者もいそうなものだが、なになに、皆ひたすらに歩き続けるのだという。

 と、まあ、そういう話は本で読んだり人に聞いたりして漠然と知ってはいたのだが、自分が死んだとき、そんなに長い旅に出るのはいやだなあ、最後まで歩けるかなあ、とこれも漠然と思っていた。
 それが最近、なんとなく、その旅に耐えられるような気がしてきた。
 自分が定年退職して「いつまでに」と期限を切られた作業というものが殆ど無くなったこと、「いつまでに帰らなくては」と思わずに旅ができるようになったことが背景にありそうだ。
 極楽浄土までは、なにも光の速さで行く必要はない。100京年の何京倍かかるか分からないが、地道に歩いていれば、たとえ途中で少々の寄り道をしたとしても、いつかは着くことができるだろう。
 阿弥陀さまは無量寿だそうだから、私の到着がどんなに遅くなっても必ず待っていてくださるに違いない。
 たった一人の長い旅ではあるが、孤独というわけではない。浄土で待っていてくれる父母兄妹、友人知己への土産話を作りながらの旅だ。通過する仏国土では、あとから追ってきてくれる妻や子に物知り顔で語る見聞もできるだろう。今はこの世にいる姉たちもやがて私と前後して旅に出るであろうから、道中のあれこれを語り合えば話も尽きないことと思う。
 そして辿り着いた浄土では、無量寿の阿弥陀さまに守られて幸せに暮らしている彼らが笑顔で迎えてくれるに違いない。
 私が浄土に着くのは100京年の何京倍か先のことだろうから、そのころには妻も一人旅をしているだろう。
 私の知るかぎりでは、妻は一人旅の経験がない。だから初めての一人旅で心細い思いをしているかも知れない。途中まで迎えに行ってやろうか。この世で苦労をかけた罪滅ぼしに、それくらいのことはしたいと思う。
 それに浄土への旅は、最後の最後、あと百歩かそこいらの所に最大の難所が待っているらしくもあるのだ。道の北側には水の河、南側には火の河が広がり、落ちたら怒りや欲望の渦に呑み込まれてしまうという。しかもその道は片足の幅ほどしかないというから、言ってみれば平均台のような橋の上を数十メートル歩くというのに等しい。両側の濁流を見れば足もすくむだろう。
 向こう岸では阿弥陀如来が、手前の岸ではお釈迦さまが、それぞれ渡河者を励ましてくれると聞くが、それにしてもそんな橋を妻が一人で渡れるとは思えない。私が手をつないだところで却って怖がるかもしれないが、それならせめて数歩前に立って、下を見ないようにという助言ぐらいはしようとも思う。

 この世での旅であれ、極楽浄土への旅であれ、物理的には一人で旅しているように見えても心の中には大切な人がいる。
 だから辛くはないし、寂しくもない。少々長いのが気がかりではあるが、いずれ行くことになるのなら、究極の一人旅として楽しみに待つことにしよう。
 
      
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