この言葉なんとかなりませんか(7)


ハンパナイ


 
若手タレントと呼ばれる人種が幅を利かせている。
 スタジオに設けられたひな壇に並んで、各種の映像や仲間の自虐的な告白などに大仰な反応をして見せるのが主な仕事だ。
 大騒ぎをするだけだから、とくに知識や話術が必要なわけではない。
 だから口を開くたびにお里が知れるような軽々しいことを言って、互いに馬鹿にし合う。中にはいかに自分が無知であるかを晒して「お馬鹿タレント」などと言われ、それで収入を得ている者もいる。
 何か訊かれると頬っぺたを膨らませて口を尖らせ、「うーん、ワカンナイ!」などと言って笑われ、それで自分がウケていると錯覚している女がいる。もはや「お馬鹿タレント」という範疇にも入れない大馬鹿で、私はそいつが出ると嫌悪感からチャンネルを変えてしまう。
 そもそも「お馬鹿タレント」という言葉自体がお馬鹿と言わざるを得ない。タレント
talent というのは本来「才能」あるいは「才能ある人たち」という意味であろう。だったら、「お馬鹿なタレント(才人)」という言葉は矛盾そのものではないか。
 日本ではテレビなどに出る芸能人をタレントと称しているが、それは和製英語であり、英語圏の人には通じない。
 まして、「才能」とは対極にあって毎日お粗末な馬鹿騒ぎに終始している者たちを「タレント」と呼ぶことが英米人に理解できる筈はない。

 そういう若手芸能人たちが好んで使う言葉に「ハンパナイ」あるいは「ハンパネエ」というのがある。
 何かを食べてその美味さを言うとき、「ウンメェー、ハンパネエ」などと言う。誰かの技量を褒めるにも「あの人の技はハンパナイですよ」などと言ったりする。
 最初は何を言っているのか判らなかったが、すぐにそれが「半端ではない」という意味だと判った。なんというデタラメな使い方であろう。
 「半端」という名詞を否定するなら「半端ではない」あるいは「半端でない」と言うべきであるし、「半端な」という形容詞を否定するなら「半端なものではない」と言うべきである。
 たとえば「完全」という名詞を否定するなら「完全ではない」と言うし、「完全な」という形容詞を否定するなら「完全なものではない」と言う。それを「完全ない」と言ったら誰だっておかしいと思うだろう。
 「間違いない」「腹蔵ない」というように、「間違い」「腹蔵」という名詞に直接「ない」をつける場合もあるが、それは「間違いない」とか「腹蔵ない」という場合に限られる。「半端ない」という言い方はないのだから、「間違い」や「腹蔵」のように直接「ない」をつけられないのは明らかである。
 つまり「半端ない」という言い方は、文法という堅苦しいことを言わなくても、日本語として不自然きわまりないものなのである。

 芸能人がすべて博学であるべきだとは思わないし、市井の人々と同じような人がテレビに出ることはむしろ良いことであるとも思う。
 それにテレビの出演者がみなアナウンサーのように訓練を受けているわけではないし、昨今のようにただ騒いでいるだけで人気が出るような世相からすれば、言葉遣いを知らない者がチャラチャラと出てくることは避けられない。
 そうは思うが、いやしくもテレビは公共のメディアである。そういう所で喋る人間は、とくに難しい言葉を駆使して知識をひけらかす必要もないが、少なくともデタラメな言葉をまき散らすことは慎むべきであろう。
 であれば、テレビ局はそうした間違いに備えるべきである。
 よく出演者が「この野草は食べれるんですか」などと「ラ抜き言葉」を使った場合に、画面下の字幕にはちゃんと「食べられるんですか」と表示されることがある。あれなどはスタッフの良識が感じられる、良いことである。
 誰かが「ハンパナイ」と言った場合には、せめて字幕に「半端ではない」と書き、番組終了後にその出演者に注意をするようにすれば、意味も考えずに真似をする「タレント」が続出することもないだろう。

 こう書くと、「お前は分かっていない。あれは間違っているのを承知で使っているんだ。美味いをマイウーと言ったりするのと同じで、客を笑わせるためにわざと言っているんだ」という人がいるかも知れない。
 しかしそうではない。美味いをマイウーと言ったりビールをルービーと言ったりするのは「間違い」の範疇ではなく、完全な言葉遊びである。だからそこには前後の音節を逆に言うというルールがある。
 ほかにも、すべての音(おん)にバビブベボをつけて喋るという遊びがある。音の段によって、一段はバ、二段はビ、三段はブという具合だ。
 「あのね」は「あばのぼねべ」、「さくら」は「さばくぶらば」になる。ルールどおりに苦もなく喋るところに言葉遊び名人の真骨頂がある。
 もしハンパナイが言葉遊びなら、他にも「冗談ない」とか「気が気ない」「失礼ない」「手遅れない」といったように、
not no で言う言い方が続出する筈である。それがないというのは、やはり最初に使った者が無知で、それを聞いた他の馬鹿が耳新しさに釣られて喜んで真似をしているということなのだ。

 誤用はともかく、人には癖というものがあり、言葉遣いにも癖がある。
 周囲はそれを癖として受け入れ、目くじらを立てずに聞いているが、さりとて自分までそれを真似ることはない。だから言葉というものは基本的な部分で、堅苦しく言うなら文法の部分で長く守られてきた。
 それが今は、誰か、とりわけ芸能人が耳慣れない言い方をすると、あっという間に全国に広まる。言葉を聞く人々の感覚の中に異物に対する抗体というものがなく、間違って使われた言葉を吟味もせずに真似てしまうからである。
 昔もあった「日本語の乱れ」ではあるが、それがここにきて急速に加速度を増しているのは確かで、識者ならぬ浅学の私までもが苛立つ状況に至っている。
 若者が本を読まなくなったことで、異物である言葉を異物と認識する抗体が育たなくなった。昔に比べて「日本語の乱れ」がハンパナイのは、そこにも原因があるに違いない。


      
徐福考  雑読の中から 
     
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