いい加減にしてくれませんか(1)


意味なく浮かれるクリスマス



 クリスマスが終わった。
 言うまでもなく
Christ + Mas であり、キリスト降誕を祝う日である。イエス・キリストの誕生日というわけではないが、仏教徒が釈迦の生誕を祝う「降誕会(ごうたんえ)」に似ている。
 キリスト教徒にとっては聖なる日であり、家族で教会に行って説教を聞いたり讃美歌を歌ったりするらしい。
 らしい・・・というのは、私がクリスチャンではないからであり、同じキリスト教といっても宗派や地域でこの日の過ごし方も違うようだから、知りもしないのに断定的な書き方をしてお叱りを受けるのがこわいからである。
 それに、クリスチャンと言ってもその信仰の深さは人さまざまで、この日を商売に利用したり、馬鹿騒ぎで過ごしたり、はたまたサンタクロースのプレゼントだけを期待したり、それはまあ色々であろう。
 小説や童話には、家々の窓に灯りがともり、中では家族が穏やかに団欒している、というようなクリスマスの情景が描かれているが、時代とともに外で友達と遊ぶ若者が増えているのも事実であろう。
 ただ、西欧諸国ではキリスト教の考え方が社会の基盤にもなっているので、どう過ごすにせよ、クリスマスというものが何となく聖なる日であるという意識は強い。
 日本でも、個々の日本人の信仰心は怪しいものだが、社会全体でみるとお盆というのがある。多くの企業は仕事を休み、人々は大渋滞に精魂尽き果てながらも毎年故郷に帰る。純粋に仏教の習わしというわけではないが、先祖の霊を迎えて過ごすという意識があり、墓掃除をしたりして、なんとなく敬虔な気持になったりもする。
 だからお盆を口実にドンチャン騒ぎをするという話は聞かない。
 もっとも昨今では折角の盆休みに先祖の“せ”の字も考えず、格好の連休とばかり海外旅行に出かけたりする輩も多いのだが、それはそれでまあいいだろう。クリスマスだって、「メリー・クリスマス」という言葉があるくらいだから、楽しく過ごすのは別に悪いことではない。
 ではあるが、お盆や彼岸はやはり仏教と神道とを基盤とした社会の慣習であり、クリスマスの下地にはキリスト教がある。
 つまり、キリスト教徒でない者にとってはキリスト降誕は「ひとごと」であり、クリスマスも多くの日本人にとっては、イスラム教のメッカ巡礼と同じく「よその風習」である。

 それなのに、なぜか日本ではこのクリスマスが一大イベントになっている。
 新興住宅地などで家々が電飾を競ったり、デパートやスーパーマーケットにクリスマスツリーが飾られたり、耳を覆うほどの大音響でジングルベルが流れたりする。
 まあ日本人は良く言えば寛容、悪く言えば節操がないから、自分と違う宗教を持っている人々を「異教徒」だなどと言って攻撃することがない。そもそも日本人がなんとなく信じている仏教だって、そもそもは外来のものだ。
 仏教は、従来からの神道と激しく衝突することもなく、すんなりと日本人に受け入れられたばかりか、ときにはほぼ国教として扱われた。そうこうするうちに神仏習合などといって、一軒の家の中に仏壇と神棚があるというような珍妙な光景が当たり前になったし、そういう家の子が結婚式を挙げるときに、ホテルに作られた“教会もどき”の部屋で、“神父もどき”のガイジンに「汝は・・・」などと言われて有頂天になっている。
 もう、何が何だか判らないデタラメさで生きているのが日本人なのだ。
 もっともそれはそれで悪いことではない。信仰の名のもとに絶えず戦争をしている連中に、少しは日本人の寛容さを見習ってみろと言ってもいいくらいだ。

 さは、さりながら。
 寛容というのは、本来相手を理解した上でそれを包み込むことである。クリスマスとは何かということを知らずにクリスマス、クリスマスと騒いでいるのは単なる無知であり、寛容ではない。
 ヨーロッパの各地でクリスマスに町が華やいでいる。それには先述のとおり精神的な基盤があるのだが、日本人はそこを抜きにして、表面の賑やかさだけを真似て騒いでいる。異教への寛容などではない。
 私はあるとき家の周りにまばゆい電飾を施している人に、なぜ飾るのかと訊いてみたことがある。返事は「クリスマスだから」というものであった。
 なぜクリスマスには電飾を施すのですか、と重ねて訊くと、「お祝いだから」という返事。さらに重ねて、何を祝うのですかと訊いたのは私も大人げないと思うが、返事は「クリスマスを祝う」とのことで、ついに最後までイエス・キリストの名は出てこなかった。
 つまりその人にとってクリスマスは宗教行事ではなく、なんとなく騒ぎ立てる冬のお祭りなのである。そしてそれは多くの日本人にとっても同じだ。
 クリスマスと言って騒いでいる多くの家に仏壇があり、葬式ではお坊さんにお経をあげてもらい、盆や彼岸には墓参りをする。クリスマス、クリスマスと言いながら十字架のある家は稀であり、日曜日に教会で讃美歌を歌う人も極めて少ない。
 別段イエス・キリストの降誕を祝う気はないが、というより、その日がキリストの降誕を祝う日だということも知らないが、ともあれ皆が騒ぐから自分も騒ぐというだけのこと。
 宗教的意味合いを知らなければ、どんな過ごし方をしても気が咎めるということはない。
 今ではあまり見られないが、昔はクリスマスというと、サラリーマンが紙で作った三角帽子をかぶってオモチャのメガネと鼻をつけ、盛り場を飲み歩くのがお決まりであった。飲み屋ではホステスが派手にクラッカーを鳴らし、客は上乗せされた代金を払った上にパーティ券まで買わされる。
 駅前には酔っ払って帰るオジサンたちを目当てにケーキを売る屋台が出て、それを買って帰るのが妻子の機嫌を案ずるオジサンたちの義務であった。電車の中ではケーキをぶら下げた酔っ払いがあちこちで眠りこけている。
 イエス・キリストが見たら目をむくような光景であるが、当のオジサンたちはクリスマスの意味を考えないから、恬として恥じる様子がない。
 まあそれでも、働くことしか知らなかった高度成長期のサラリーマンたちにとってはささやかな息抜きだったのだろうし、そういう人たちの働きのおかげで今の私たちの生活があるのだから、主も「憎めないはき違え」として許してくれたのではないかと思う。
 働き蜂という言葉がだんだん使われなくなってきたのに呼応するように、酔いどれサラリーマンの行進が減ってきたのは世の成熟と言えるが、代わって昨今は若者たちの許しがたい行状が見られるようになってしまった。
 なぜかクリスマスは男と女が一緒に過ごす日という位置づけになり、メディアがこぞって「聖夜は誰と過ごしますか」というような騒ぎ方をしているのだ。
 誰と過ごすって、それが特別な日だと思うなら家族と一緒に聖書でも読んで過ごすに決まっているではないか。
 だが、実際にはそうではない。「誰と過ごすか」という質問は、「誰とホテルに行くか」という意味なのである。
 軽口で売っているある司会者が、ある番組で高校生に訊いていた。「イブは誰と過ごすの?」
 訊かれた高校生は、いつもどおり家で過ごすと答えた。
 するとその司会者は素っ頓狂な声を出し、「えー? 彼女いないの? まだ童貞? 高校生だろ?」とのけ反ってみせた。いやしくも公共の電波を生業の手段にしている司会者が、クリスマスを何だと思っているのか。
 クリスマスというキリスト教の文化に対する無知と無礼もここに極まる。
 それに、通常の責任感を持った高校生なら、童貞だというのはごく当たり前のことだ。それをまるで人間失格のように囃し立てて「さばけた大人」を演じているその司会者には、社会規範や倫理や道徳よりも「その場受け」の方が大事なのだろう。
 
 カネのためには言葉を選ばない。そういう下劣な司会者は淘汰されればいいのだが、残念ながらそういう姿勢が若者たちに受ける。定見もなく付和雷同の日々を送っている若者(ばかもの)たちは、そういう大人を批判するどころか、それがクリスマスだと勘違いしてしまう。彼や彼女と夜を過ごさないのは惨めな負け犬なのだと思って、血眼になって同伴者を探す。
 その結果、その夜はホテルというホテルが満室になる。男たちは何日も前から値の張るホテルを予約するのに躍起になり、そのホテルに乗りつけるために高級外車を借りようとレンタカー会社に電話を掛けまくる。
 女たちは、そういう実力以上に背伸びした男の腕にぶら下がってホテルのフロントに行列をつくる。
 かくしてクリスマスのホテルは集団交尾の場所と化し、朝になると各部屋から一斉に出てきた男女でフロントの前にはまたしても行列ができる。

「皆がやっているから」というのは日本人にとって最大のモチベーションであり、バレンタインデーもボージョレ・ヌーボーの解禁日も大騒ぎになるのだが、少しは矜持というものがないのだろうか。
 例えば、女連れで毎晩ホテルに行っていたとしても、クリスマスだけは行かない。なぜなら皆が行くからだ、というような誇り高き男はいないものか。
 例えば、仏教徒というわけでもないが、普段の生活はなんとなく仏教のしきたりに従っている。だからキリストの生誕よりは釈迦の生誕を祝って4月8日に釈迦像に甘茶をかけてみよう、というような「説明のつく行動」をとる男はいないものか。

 私も人並みとは言えないが一応敬神崇祖の念は持っている。だが恥ずかしいことに仏教徒と言えるほど仏教を知っているわけではない。キリスト教徒と言えるほどキリスト教を知っているわけでもなく、イスラム教徒と言えるほどイスラム教を知っているわけでもない。
 だからお経も唱えないし、讃美歌も歌わない。むろんコーランも暗唱していない。
 だが、お寺の境内で立小便はしないし、教会の中で爆竹は鳴らさない。モスクで酒を飲まないのは無論である。それは多くの人と同じで、宗教というものによそながらの敬意を覚えるからである。
 キリスト教徒にとっての聖なる夜に、「クリスマス」の名のもとにサカリのついた猫みたいに我さきにホテルの部屋に消えてゆく日本の若者たちを見ていると、これはやはりキリスト教徒に対して申し訳ないと思ってしまうのだが、どうであろうか。

 無論、キリスト教を信じていないのに、なにも敬虔ぶった顔をして教会に行く必要はない。逆に、仏教徒がイエス・キリストの降誕を一緒に祝ったっていいだろう。
 例えば日本に来ている外国の人が、町内の盆踊りの輪に入って踊っているとする。それを、盆踊りは仏教の行事なのだから異教徒は入るなと目くじらを立てる必要はない。お互いの神や仏に敬意を表するのは良いことだし、お互いの風習を大切にすることも大事だ。
 だから日本人がクリスマスを賑やかに過ごしたって、別に咎めるほどのことではない。ただそれは、キリスト教社会の宗教観や道徳観に対する一定の礼節があってのことであり、キリスト教の聖なる日を口実にホテルに殺到することではない。

 自分が猫や杓子に譬えられる情けなさが分かる、誇りを持った若者。
 他者の信仰に対して礼を失しないだけの節度を持った若者。
 世のトレンドというものに訳もなく流されることのない、自我を持った若者。
 どこかで仕掛け人が笑っているような商業戦略に踊らされない理性的な若者。

 そういう若者が増えれば、日本人も今のように世界の笑い者にならずに済むと思うのだが。
     
日本人には誇りがないのか(1)  一度かぎりの生 
     
Copyright© 2010 Wakeari Toshio.All Rights Reserved.
inserted by FC2 system