日本人には誇りがないのか(1)


なぜ名を先に、姓をあとに言うのか



 ニュージーランドやオーストラリアに生徒を連れて行ったとき、事前に自己紹介の練習をさせた。
 毎年々々、どの生徒も必ず「
My name is Daisuke Yamada」のように名を先に、姓をあとに言う。Yamada Daisuke と言え、と教えても次の生徒がまた My name is Keiko Tanaka というように言う。中には「そう言うと、 Daisuke が苗字だと思われるんじゃないですか?」と訊く者もいる。
 日本では姓を先に言うのですと説明すればいい、と言うのだが、どうも納得がいかないらしく、現地に行ってからまた「名-姓」の順に戻してしまったりする。
 相手の言語習慣に合わせるというが、それでは日本語の上手いアメリカ人が自己紹介をするとき、「ワタシハ ケネディ・ジョン デス」と言うか。たとえ日本語で話すときでも「ワタシハ ジョン・ケネディ デス」というように名-姓の順で言うのが普通だ。つまり、人の名前については相手国の習慣に合わせないのである。
 名前というのは、その人のアイデンティティを示すもので、自我や誇りと一体のものである。だから相手の習慣に合わせて順序を入れ替えたりはしないものだ。
 各国の習慣、すなわち各国の文化は他国と優劣を競うものではない。それぞれ自国の文化に誇りをもち、他国はそれを尊重する。お互いに相手国の文化を理解し、敬意を払うべきものであろう。
 そもそも英米人だって、自国の習慣に合わせて日本人の名前を無理やり「名-姓」の順に変えて呼ぼうなどとは思っていないのだ。
 その証拠に英米人が中国人や韓国人を呼ぶときには、中国式・韓国式に「姓-名」の順で言っている。それは中国や韓国では姓を先に言うのだということを英米人が知っているからにほかならない。中国人・韓国人が英語で自己紹介をするときに堂々と姓を先に言うことが繰り返されているうちに、英米人がそれを理解したのだ。
 それが日本人は常々「名-姓」の順でばかり名乗るので、日本は名を先に言うものだと多くの英米人が誤解をしているのである。

 相手の習慣に合わせるのが礼儀だというなら、前述の「ワタシハ ジョン・ケネディ デス」というのは日本人に対して失礼だということになるし、中国人や韓国人は英米人に対して失礼を働いていることになる。
 相手に合わせるという形の礼儀があることは分かるし、それは悪いことではない。日本には「相手に合わせる」ことを根底とした文化もあり、それはそれで優れた情感を生みもし、思考の深化にもつながっている。
 たとえば日本語の「さようなら」には、「私はお別れしたくないのですが、あなたにはご都合があるという。左様ならば致し方ありません」という含意がある。自分の気持ちではなく、相手の都合に合わせるという姿勢がにじみ出ている美しい言葉だ。
 繰り返し言うが、相手に合わせるということは悪いことではない。
 しかし、それが過ぎたり、あるいは場面を間違ったりすると、それは礼儀というより「へつらい」になり、卑屈にもなる。自分が自分であることの誇りを示す文字通りの固有名詞まで相手に合わせて変形させるとなれば、これはやはり卑屈に過ぎるであろう。
 日本が朝鮮を支配し、創氏改名政策で朝鮮人に日本人もどきの名前を名乗らせたことは歴史の汚点として記憶されている。朝鮮人にしてみれば屈辱の記憶であり、日本人に対する恨みのもとでもある。
 朝鮮人が、生まれて以来名乗っていた名前で呼んでもらいたいと思ったのと同じく、日本人も自分の名前を大切にすべきだろう。強制もされぬのに、わざわざ自分から自分の名前を変形させる必要はないと思うが、どうだろうか。
 オリンピックで大活躍をして日の丸を挙げた選手が「コウヘーイ・ウーチムラ!」などとアナウンスされている場面で、うんざりしている私は異常だろうか。
 ここで、常々「名-姓」の順で名乗っている御仁に尋ねたい。
 京都でガイジンを案内するとき「ここは本能寺といって、ノブナガ・オダがミツヒデ・アケチに討たれた所です」と言いますか?
 鎌倉を案内して、「ここはヨリトモ・ミナモトが幕府を開いた所です」と言いますか?
 歴史上の人物については姓-名の順で言う、というのなら、いったいいつの人から名-姓の順で呼ぶのか。そんなややこしいことをするくらいなら、すべて日本人の名は姓-名で呼ぶという、当たり前のルールに従っていれば、遠からず英米人の誤解を解くことができるだろう。
 現に私は仕事上の必要から英語の名刺を持っていた。無論、「姓-名」の順になっている。パスポートのサインもそうだし、クレジットカードも同じだ。
 名刺を渡すときに、「姓-名」の順であることを説明し、ついでに日本では大人を呼ぶときには苗字を呼ぶのが普通だから、私も苗字で呼んでもらいたいと付け加える。下の名前を呼び捨てにされたりすると、なんだか軽んじられているようで愉快ではないと言うと、相手はよく分かってくれる。最近は説明をしなくてもその辺を知っている人も増えてきた。
 もう一息だと思う。
 そろそろ「マイ・ネイム・イズ・ダイスケ・ヤマダ」なんていう相手の顔色を窺うような自己紹介はやめて、堂々と山田大介と名乗ろうではないか。
     
忘れ得ぬ人  いい加減にしないか(1)
     
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