トイレ今昔考


      トイレ。昔は便所といった。その昔は厠とかはばかりといったようだが、私が物心つい
     たころは便所であり、言葉としてはそれが一番しっくりくる。WCという言い方もしたが、
     最近は目にも耳にもしなくなった。
      女の子が「ご不浄」などと言っていた時期もあったが、これはトイレというものが長く
     汚い場所であったことを言い得ている。
      日本の家屋では、それが豪邸であれ長屋であれ、便所は建物の基本的な間取りの外、た
     とえば廊下の端などに出っ張って作られていた。
      寒いのは仕方ないとしても、なぜか暗く、便所の電気といえばピンポン玉くらいの電球
     が天井に直接ついているのが相場で、たまに二股のソケットにもう少し大きな白色電球が
     ついていたりすることもあったが、それは金持ちの家に限られていた。
      だから便所は暗い所というのが当り前で、子供には怖い場所であった。私も夜は戸を開
     けたまま入るのが常で、よく母親に叱られたものである。
      床は勿論板張りで、水洗ではないから便器に底がない。下が丸見えであり、そこには大
     小便が池の如く溜まっている。まあ、見かけは大鍋に具沢山のカレーが煮てあるような按
     配である。
      定期的に汲み取り屋というのが来て柄杓で桶に汲み上げ、二つの桶を天秤棒にぶら下げ
     て、担いでリヤカーまで運ぶ。
      私の知っているのはそこまでで、その桶は畑に運ばれたり養豚農家に運ばれたりしてい
     たらしい。前者は確かなようで、当時畑には糞尿を溜めておく「肥え溜」というものがあ
     り、誰それが落ちたというような話が絶えなかった。狐が人を化かし、人は肥え溜を温泉
     と勘違いしてどっぷり浸かってしまうという話もあった。
      便所には紙が置いてあったが、私の家ではそれは新聞紙であった。新聞紙が適当な大き
     さに切って重ねてあり、それで拭くのである。
      新聞紙というのは丈夫なようで案外破れやすく、使用中に破れたのではまことに具合が
     悪い。
      そこで、使用前にくしゃくしゃと揉む。これで格段に使いやすくなる。
      今の人には信じられない話だろうが、大抵の家ではそうであった。たまに裕福な友だち
     の家に行くと、新聞紙ではなくてネズミ色のガサガサしたちり紙が置いてあったりして、
     さすが金持ちは違うと恐れ入ったりしたものだ。
      個人の家だけではない。公共の場所でも事情は同じで、学校の便所にも外に汲み取り口
     というものがあり、私たちも、先生に言われて柄杓で汲み取っては、水で薄めて花壇に撒
     いたりした。
      学校の便所は家庭のそれに比べてもさらに怖い場所であり、女の子が用を足していると、
     下から青い手が出てその子を引きずり込むという話は、ほとんど事実として信じられてい
     た。
      私が小学校の高学年のときに学校の便所が水洗になり、上から鎖がぶら下がっていて、
     水を流すときにはその鎖を引っ張るのだと先生から指導があったりしたが、この水洗便所
     というのは急には普及しなかった。
      私が教員になったあとも、勤務先の高校はしばらく汲み取り式であり、顧問をしていた
     体操部の合宿では当然利用していた。大便をすると、下に溜まった汚水が跳ね返って尻に
     当たるということがよくあり、あるときその対策が話題になった。
      Y君という生徒が、それは入射角と反射角の原理によるものであるから、便を水面に対
     して斜めに落とせば水は斜めに跳ね返り、尻には当たらぬ筈だと論じた。皆、目からウロ
     コが落ちる思いで、さすがYだと感心しきりであった。
      そのとき誰かが、どうやったら斜めに落とせるのかと疑問を呈した。談論風発、モノが
     尻を離れる直前に腰を前後に振ればいいという話になり、早速試してみることになった。
      私も勿論試みたが、想像以上の難度で、一度も成功しなかった。誰もがうまくいかなか
     ったと嘆き、結論として、理論と実際とは違う、Yは頭でっかちで役に立たぬと、さっき
     までの称賛とは打って変わっての非難となってしまった。
   
      かく愉快な体操部員たちではあったが、許しがたい悪さもまた枚挙にいとまがない。
      ある朝、私は便所でしゃがみ、群がる蚊を手に持ったちり紙で払いながら用を足してい
     た。そこへ彼らが手に手に水をいっぱい入れたバケツを持って足音を忍ばせながら集まり、
     合図もろともその水を一斉に個室の上からぶちまけたのである。
      あまりの水量に私は危うく尻もちをつきそうになったが、必死にキンカクシに掴まり、
     なんとか持ちこたえた。しかし、持っていたちり紙は水に浸けたように濡れてしまい、と
     ても使える状態ではなくなっていた。そのあと私がどうやって始末をしたかということは、
     とてもここに書けたものではない。
      そのふざけた連中が私の家に遊びに来たとき、T君という生徒が便所に入った。その家
     は古い借家で、便所は汲み取り式であった。
      出てきたT君が困惑した顔で、ズボンを下ろしたときにポケットの財布が下に落ちてし
     まったと言う。さあ大変と汲み取り口を開け、皆で上から横から棒で財布を引っ掛けよう
     と試みた。
      ところが、あろうことか、棒で引き寄せようとするたびに財布はツルリ、ツルリと滑り
     落ち、とうとうカレーの中に沈んでしまった。やむなく台所から味噌汁などすくうお玉を
     持ってきて棒の先にくくりつけ、それで見えない財布を探ろうとカレーを掻き回した。さ
     んざん引っ掻き回した結果、財布が取れたのは幸いであったが、そのあと財布と紙幣をじ
     ゃぶじゃぶ洗い、紙幣は新聞紙の上に広げてドライヤーで乾かすなど、大変な作業であっ
     た。
      そのお玉はどうしたか? もう忘れた。
 
      

      
      その後、私は結婚して別の借家に引っ越しをしたが、
     そこもまた汲み取り式で、しかも便槽が浅く、すぐにい
     っぱいになった。にも拘わらず町の中でないため汲み取
     り屋がなかなか来てくれない。
      私は仕方なく、庭に人が立ったまますっぽり入れるほ
     どの穴を掘り、自分で汲み取っては、その穴に入れて土
     をかけた。
      穴がいっぱいになるとまた別の穴を掘る。
      そんな穴の中で長男を抱いて撮った写真があるが、後
     年その写真を見た長男は、それが何の穴だか判らなかった。
   

      と、まあ色々書いたが、要するに便所は汚い所というのが動かしがたい事実だった。故
     に「ご不浄」と呼ばれたのであるが、水洗便所が徐々に普及してくると次第に不浄ではな
     くなり、今では家中で一番きれいな場所と言ってもあながち嘘ではない。
      考えてみれば1日5分ずつとしても一生では2000時間以上入っている場所である。
     せいぜい気持良く過ごせるよう意を用いるべきであろう。
      私も、家を建てるときに、家など屋根と壁があればいいと思ってはいたが、便所だけは
     注文をつけて広くした。収納棚と本棚を作りつけ、水槽を置いて渓流の魚を飼った。
      ここで用を足しながら本を読む。用が済んでも本が面白ければずっと入っている。あま
     りの長さに女房が心配して「大丈夫ですか?」などと声をかけてくることもある。年をと
     ると便所で倒れる例も多いというから無理もない。
      私もその辺は心得ているつもりであるから、便所に入っても鍵はかけない。いつでも家
     族が飛び込めるようにということであり、女房にもそう言ってある。
      余談になるが、2011年3月に東日本大地震というのが起きた。未曾有の大惨事であ
     った。
      それについてここで書くのは不謹慎であるので詳述はしないが、余震は長期間続き、我
     が家もしばしば揺れた。
      私は万一中にいるときに家が壊れるほどの地震がきたら大変だと思い、女房にも内鍵を
     かけぬようにと厳命した。便所の前にスリッパが置いてあれば使用中だということは分か
     るのだから、誰もドアを開けたりはしない。つまり、内鍵は要らないのだ。
      それなのに女房が入ると中からガチャッと音がする。私は「また鍵を掛けただろう!」
     と怒鳴る。
      いつか、私の言うことを聞いていればよかったと後悔する日がくるに違いない。
 

      さて、話を戻すと、かくの如く便所はきれいになり、それは大変結構なことであるが、
     最近はきれいなだけでは勝負にならぬものだから、奇をてらった内装や無用な機能がどん
     どん増えてきた。
      例えばあるスナックバーで便所に入ったところ、正面と左右の壁が鏡になっていたこと
     があった。あれはまことに居心地が悪い。
      私は万物の創造主がすべての動植物を合理的かつ美しく作り給うた手腕に畏敬の念を抱
     いているが、その神にして2つの大きな失敗作があると思っている。なんという無様な形
     に作ったのだろうというその1つは蛇であり、もう1つは男性の泌尿器である。女性の体
     を究極の美しさにデザインした神が、なにゆえ男にはかく珍妙でグロテスクな部品を付け
     てしまったのだろう。
      三方の鏡にそんなものをまざまざと映し出されて、おのが放尿の様を見せられたのでは、
     折角の酔いも醒めてしまうというものだ。
      またある喫茶店では、男女共同の和式便器が置かれていたが、それが鎧の如く覆われて
     いて、なんとか開けようとスイッチやボタンを探したがどうにも見つからぬ。仕方なくそ
     のまま席に戻ったが、店を出てから連れに話すと、あれは跨ぐと自動的に開くのですよと
     言われた。
      そこまでではないが、前に立つと蓋が開く便器に慣れてしまうと、外国のホテルなどで
     そういう機能がない場合、つい無意識に蓋の上に腰掛けてしまい、大きな音にびっくりし
     たりする。
      といって、自動開閉がいいというわけでもなく、我が家の便器はセンサーが恐ろしく敏
     感で、便所が広いにも拘わらずドアを開けただけで蓋が上がる。だから中の本棚から本を
     取るためだけに入室するときなど、ドアを最小限の幅で開けて、壁伝いにそっと歩いたり
     していた。
      それが最近、便器の前に立たないと蓋が開かなくなった。さては古くなって感度も鈍っ
     たかと合点していたら、なんと感度は調節できるようになっているのだそうで、いつの間
     にか女房が調節していたのだった。なんとも余計な機能がついているものだ。
 

      まあ、そんなことは目くじらを立てることでもないが、困るのはボタンに手をかざすだ
     けで洗浄水が出る便所である。
      車で寝ながら旅をしたとき、ある道の駅で早朝、便所に入った。腰掛けて用を足してい
     る最中にやたらと水が流れる。
      まだ夜の明け切らぬ時間で、ジャージャーという音が周囲に響き渡っているのが分かる。
     故障かと思いながら用を終え、さて水を流そうとレバーを探したところ、壁にボタンがあ
     り、洗浄のときは手をかざすようにと書いてある。ところがそのボタンが体の横にあるた
     め、ちょっと身動きするとすぐに反応して水が流れるものと判明した。
      身動きといえば、伊良湖岬の海水浴場でも車中泊の朝、まだ真っ暗なうちにランタンを
     持って便所に行った。入口にさしかかるとパッと電気がつく。ならばランタンは不要と、
     手洗い台の上に置いて個室に入り、大きな用を足し始めたところ、プツッと電気が消えた。
     ランタンはなし、手探りで紙をたぐってやっと始末をし、立ち上がるとまたパッと電気が
     ついた。
      不思議に思って立ったり坐ったりを繰り返してやっと判った。しゃがんだまま手を頭上
     で動かすと電気がつくようになっていたのである。
      どうもそれやこれやのハイテク便所を見ていると、その根底に行き過ぎた潔癖症という
     問題があるように思えてくる。便所で他人が触ったものには触れたくないということから、
     点灯、洗浄、手洗いといったことが手をかざすだけでできるように機械化されているよう
     だ。
      蛇口に手を触れることすら気持が悪いというのであるから、どこの誰が腰かけたか分か
     らない便座に尻をつけたくないという人が多いのはさもありなんと思う。
      佐渡島に渡る高速船ジェットフォイルでは、便座に紙のカバーがかかっており、使用後
     自動的にそれが取り換えられるようになっていた。
      ドイツのアウトバーンにあるパーキングエリアでは便座そのものがくるりと回って、消
     毒液で拭かれるようになっていた。私が見たわけではないが、後日女房がそんなことを言
     っており、あまつさえデジカメで動画を撮っていた。(ここをクリックしてください
      いやはや大したものであるが、さて、他人の手というのはそんなに汚いものであろうか。
     他人の尻というのはそんなに汚いものであろうか。だとしたら、自分の手や尻も汚い筈で、
     自宅ではその汚い尻が坐った便座に毎日坐っていることになる。
      そんなに神経質になっていては、先進国以外は旅行できない。
   
 中国では、床に穴が並んでいるだけで仕切りがない公衆便
所をあちこちで経験しているし、西域で泊ったホテルの便器
は一応洋式ではあったが、蓋も便座もなく、腰かけると尻が
すっぽり便器に入ってしまうので、便器の上に乗って和式の
ようにしゃがんで用を足したりもしたものである。
 ギリシャの便所では腰掛けると目の前に蓋のないポリバケ
ツが置いてあり、中に便のついた紙が沢山入っているのが普
通であった。これは水事情によるものだと聞いたが、何年た
っても変わらず、しかも空港や観光地の公衆便所だけがそう
で、ホテルやレストランではちゃんと流していたから、本当
     の理由は分からない。
 
      なにも後進国の便所が野蛮だというのではない。先進国と呼ばれる国々で公衆便所に入
     ると、呆れるくらいに無神経な作りに出遭う。隣のボックスとの仕切り壁が、下40セン
     チほど開いており、隣で坐っている人の足が見えるのである。足首まで下ろしたズボンが
     床についているのなどもよく見える。あれでよくしていられるものだ。
      ドアはさらにひどく、下が開いているばかりかドアそのものの丈が短いために、立ち上
     がると順番を待っている人と目が合ってしまったりする所が少なくない。アメリカの海水
     浴場では、腰掛けたままで前を通る人が見えるという極端に小さいドアしかない便所で用
     を足さねばならず、閉口した。犯罪を防ぐためだという人もいるが、逆にその隙間から手
     を入れて、用足し中の人のバッグをひったくるという事件もあとを絶たないそうであるか
     ら、これも本当のところは分からない。
 
      オーストラリアである家庭に泊めてもらったとき、財布を持つ習慣のない私は、胸ポケ
     ットの小銭を便器の中に落としてしまった。そのまま流してしまおうと思ったが、見ると
     日本の百円玉が1個混じっている。あとで管が詰まったりして修理屋が来たときに、さて
     はあの日本人かと話題になっても困るので、水の中に手を突っ込んで拾った。
      ところがその家では、便所に接した手洗い場がなかった。濡れた手を隠しながら家人の
     いる居間を抜けて洗面所まで行かねばならず、なんと不便な家だろうと腹立たしい思いで
     あった。
      そもそも便所というものに対する感覚が違うのである。たとえば日本では用を終えて出
     るときにドアを閉める。ところが外国、とくに欧米では使っているとき以外はドアを開け
     ておく家が多い。私も最初のころは何度か注意された。ドアが閉まっていると、誰かが使
     っていると思ってほかの人が入れないのだという。
      使っていればドアの前にスリッパがあるから分かるだろう。そう思ったが、考えてみる
     と欧米では家の中でも靴を履きっぱなしだから、便所に入るのにスリッパを履き換えると
     いうことがない。
      しかし、それだったらノックをすればいいではないか。とにかく、開けっ放しで前を通
     るたびに便器が見えるというのは、どう考えても粋ではない。
      さらにホテルなどでは例外なく、浴室に便器があり、しかも洗面所と一体になっている
     から、連れが風呂に入っているときは洗顔も用便もできない。連れが歯を磨いていれば風
     呂も便所も使えないということで、これほど不合理なことはない。連れが風呂から出てき
     て、やれやれと思って髭を剃りに入ると鏡が湯気ですっかり曇ってしまっていたりもする。
      そもそもバスタブに仰向けになってくつろいでいるときに、うっかり顔を横に向けたり
     すると、至近距離に便器があるというのでは、ああ極楽々々という気分にもなれないでは
     ないか。
      あれこれ考えれば考えるほど、日本は便所について優れた感覚をもち、工夫をこらして
     いると思う。少々行き過ぎと思うこともないではないが、そこにはちょっとした遊び心も
     感じられ、まあ許そうという気になる。
   
      思えば、万人にとって日々無縁ではいられない便所のこと。時代とともに変化も進歩も
     するのは当り前だ。私の記憶の中だけでも同じ用途の場所かと思うほど違ってきている。
      おそらく今後も進化し続け、そのうち洗浄水も使わず、排泄物を一瞬にして気化してし
     まう装置のついた便器など登場するであろう。どういう仕組みになるかは分からないが、
     「便秘対応機能」とか「下痢対応機能」などというものが付くかも知れない。
      ただ、進化すればするほど便所は無機質になり、便器はさながら医療器具のようになっ
     ていくに違いない。そこにはもはや怪談めいた物語が入り込む余地はなくなり、「青い手」
     だの「狐の仕業」だのといった言葉は死語と化すであろう。
      それはそれで残念な気もするが、既にこの稿を読んでも書かれた状況をイメージできな
     い若者が多いのであろうし、そんなところで時代に抗ってみても仕方のないことではある。
      さればこれからは、清潔で機能的なその場所を、長年使い慣れた「便所」という生々し
     い言葉ではなく、意味不明ながら無難な「トイレ」という言葉で呼ぶことにしようかと、
     今日も思案しながら噴出する温水に身を任せている。
年賀状あれこれ  もれなく取って、あわよくば返さず 
       
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