年賀状あれこれ


 一時期、虚礼廃止ということが言われ、年賀状がやり玉にあがった。
 儀礼的な新年の挨拶など無用だというわけで、年賀状のやりとりをしない風潮が起こったのである。
 まあ、一理ある。
 しかし、なんでもかんでも一緒くたにして年賀状は悪だと決めつけるのもどういうものか。
 何年も会っていない人からの年賀状は、息災を知るだけでも嬉しいし、懐かしくもある。3日にあげず会っている人からのものだって、改めて今年も仲良くやっていこうという気になる。
 さらに言えば、儀礼的・形式的なものであっても、相手が私のようなものを一応儀礼の対象に思ってくれているのであるから有難いことで、それはそれで拝受すべきものとも思う。
 だから私も結構な数を出しているし、ほぼ同じ枚数をもらってもいる。正月の楽しみの一つだ。

 ただ、有体に言って、もらってもあまり嬉しくない年賀状というのがあるのも事実だ。
 いくつか挙げてみよう。
 たとえば、こちらの名前、つまり宛名が間違っているものがある。私は杜志夫などと名乗っているが、戸籍上は正夫といい、宛名としてはどちらでもいい。だがそれを「征夫」と書かれるといい気分ではない。はじめは単なる変換ミスだろうと気にとめなかったが、それが30年以上も続くとさすがに見るたびに不愉快になる。
 パソコンに入力してあるものをまとめて印字するだけで改めて確認などしないのだろうが、それにしてもこちらからは毎年「正夫」と書いて出しているのだから、オヤッと思っても不思議ではなかろう。
 まあ挨拶文も「旧年中は・・・」という定型文が印刷されているだけだから、プリンターから出てきたものをそのまま輪ゴムで束ねて投函するのだろう。誰に出したかはパソコンだけが知っていて、本人は知らないということだ。無論、その宛名が違っているなどということは、返送でもされてこない限り気がつかないのだろう。
 
 誰に出したかを差出人が知らないという例はほかにもある。
 元旦と数日後と、同じ人から2枚届くというのがそれだ。パソコンで一括印刷して投函したものの、こちらからの年賀状を見て、自分も既に出していることを知らずに、もう1枚プリントして出すのだと思う。勿論文面は「旧年中は・・・」だ。
 
 この「旧年中は・・・」というのは最も多い文例だが、その多くは「ひとかたならぬお世話になり」とか「何かとお世話になり」と続く。しかし、ほとんどは旧年中一度も会っていない人だ。つまり、お世話をしていないのである。
 一年間一度も会っていない人に「大変お世話になり」という文を出せるということは、世話になったかどうかを考えずに出しているということであろう。だから本当に世話になっている人に出す場合でも、お礼の気持とは関係なく、いわばハガキのデザインとして印刷しているだけなのだ。

 次に嬉しくない年賀状は、内容のないもの。
 ある人と長年にわたって年賀状のやりとりをしているが、その人の文面は毎年「謹賀新年」としか書かれていない。いや、それ以外に差出人の名が4文字書かれているが、住所も郵便番号もない。こちらから出したものが返ってこないところを見ると、引っ越しなどはしていないのだろうと推測できるが、それ以外の近況などは知るべくもない。
 「賀正」という2文字だけのものもあり、何を言いたいのか、とんと判らぬ。
 
 何を言いたいのか?といえば、もっとひどいのもある。毎年の干支を書いてあるだけのものだ。
 寅年なら「寅」、卯年なら「卯」という字が一字書かれている。それだけだ。今年は「辰」とあった。12年後にまた「辰」という年賀状がくるだろう。
 本人は書道をやっており、字は筆で書いてある。つまりは書き初めだ。
 しかし、もらった方にしてみると、だから何だとしか思えない。年頭の所感が述べられているわけでもないし、何らかの挨拶とも思えない。まあ、自己満足の極みというべきであろう。
 かく、もらって嬉しくない年賀状というのはいろいろあるのだが、先述のとおり義理でも形式でも私をパソコンのリストから消去しないでいてくれるのだから、文句を言ってはバチが当たるだろう。それに、もしかしたらそんな年賀状でも切手シートが当たったりするかも知れないのだし。

 一方、貰って嬉しい年賀状は沢山ある。なんといっても近況が分かるもの。
 たとえば結婚式の写真を載せて「私たち結婚しました」というのは典型的な近況報告だが、臆面もなく幸せ気分を振りまく慎みのなさに、読む方が気恥ずかしくなってしまう。とはいえ、こういうのは貰って嬉しい年賀状の代表格だ。
 とにかく、幸せの報告は年賀状の必須コンテンツである。
 ほかにも、家族の写真を載せてあるものなど微笑ましくて良い。それがスナップだったりすると、元気な様子が彷彿としてきて安心する。
 ジジ馬鹿、ババ馬鹿丸出しの孫の写真も笑ってしまう。孫一辺倒の毎日が想像でき、家庭の幸せを感じる。
 親馬鹿が子供の写真をこれでもかと載せてあるのもなかなか良い。親子の楽しげな写真を見ると心が温まる。
 ただ、生まれたばかりの赤ん坊の写真をでかでかと載せるのは、ちょっと考えた方がいい。親にはどう見えるか知らないが、他人が見ると猿かアザラシの写真にしか見えず、今年は申年だったかな、などと思ってしまう。
 
 我が子を自慢している文章も、幸せな証拠であろうから悪くない。
 もっともそれは子供が小さいうちに限られる。「おかげさまで我が家では長男が東京大学を卒業し、次男が東京学芸大学2年、長女は4月から京都大学に通って皆元気にしております」などと印刷された文面を読むと、天下に宣伝しているようで品性を疑ってしまう。「おかげさまで」と書かれても、当方は勉強を教えたわけでもなく、学費の援助をしたわけでもない。
 「3人の子供の学費が嵩んで大変ですが、長男がやっと大学を卒業しましたので、少しは楽になるかと思っています」程度にしておけば共感も得られるものを。
 だいたい自分の子の通っている大学の名前など、相手にとってはどうでもいいことなのだ。
 子供の自慢はせいぜい中学ぐらいまでにとどめておいた方が無難だろう。

 こちらを気遣ってくれる文面もありがたい。
 当方の年齢を考えて、あまり飲み過ぎないようにとか薄着もほどほどになどと書かれていると、私のことをよく知っていてくれることに感激してしまう。
 実は私自身、年齢とともに酒量も減り、薄着もしなくなっているのだが、昔の私をそのままにイメージしてくれていると思うと、有難いやら申し訳ないやらで、言葉もない。

 他方、嬉しいとか嬉しくないとかいうことではなく、困惑する年賀状というのもある。
 極め付けは差出人の住所も名前も書いてないものだ。毎年必ず何枚かある。
 年賀状は郵便局の消印がないから、投函された地域も特定できない。毎年くれる人で今年はきていない人、こちらからは出しているが向こうからは来ていない人などから推測するのだが、そういう人は何人もいるので、絞れない。せめて自筆で何か書き加えてあれば前年のはがきと照らし合わせて筆跡をたどることもできるのだが、印刷された文面だけだと手掛かりがない。
 私が年賀状を出す相手は、原則として前年にくれた人、あとは先方からの賀状の有無に拘わらず挨拶を欠かせない恩人などということになる。
 だから差出人不明の場合は次の年にこちらから出さないことになり、先方はこちらのことを礼儀を知らない奴だと思うであろう。なにしろその人自身は、差出人欄が空白であったとは思っていないのだから。
 なぜ前年にくれた人を原則にするかというと、こちらからは出したが先方からは来なかったという場合、何かで忙しかったのだろうと思いつつも、ひょっとしたら相手が惰性的なやりとりを疎ましく思っているのかも知れないと考えるからだ。それなのにこちらからしつこく出しては迷惑だろう。
 そう思って翌年は出すのを控える。すると向こうからのものが来たりして、慌てて返事を書く。礼を失したと思ってその翌年は早々と出す。すると向こうからは来ない。
 私はそういうのを秘かに「きまぐれ年賀」と呼び、年頭の挨拶なのだからきちんとしてもらいたいと思ったりする。気が向いたら出すというのは、こちらとしては対応が厄介なものだという意識からである。
 しかし、そういう私の意識こそ、冒頭に述べた「儀礼的な」ものというべきで、考えてみれば私自身が虚礼廃止派のやり玉に真っ先にあげられても仕方がない存在なのだろう。

 とまあ、年賀状の季節になると毎年同じことを考え、出して嫌がられない年賀状のあり方に頭を悩ませるのだが、つまるところ、相手を意識して出すという、当り前のことに尽きそうだ。
 私がもらって嬉しいものは、みな上に述べたとおりのものであり、私もそういうものを見習いたいものと思う。
 逆に、出しておかないとまずいからというわけで機械的に出すもの、さらに出すことすら意識せず、パソコンとプリンター任せにしているものなどは、もらっても嬉しくないばかりか、ときに不快感を抱きさえする。
 これも反面教師として肝に銘じておきたい。

 さて最後に。
 毎年年賀状のやりとりをしながら、もう何十年も会っていない人。
 年賀状には「今年こそ会いたいものですね」などと書いたり書かれたりしている。本当に会いたい。
 なんとかして会おうと思えば、時間を作れないわけでもない。ただ、漠たる不安もあって、そのうちそのうちと思って月日が経っている。
 私は美術館や観光地で老人割引きが受けられる総白髪のよぼよぼ爺さんだ。街中でショーウインドウに映った自分の姿を見てギョッとするのは毎度のこと。どこの老いぼれかと思ってもう一度見ると、紛れもなく自分自身であり、かつては想像もしなかった姿だ。
 そんな私が何十年もお会いしていない恩師を訪ねて、先生は変貌した私を懐かしがってくれるだろうか。もし先生が足元もおぼつかず、こたつに入ったままで玄関にも出てこられなかった場合、先生の自尊心を傷つけずに昔話で盛り上がるということができるだろうか。
 相手の年齢を考え、会えるうちに会っておきたいという気持と、会わずにお互い昔のイメージを抱いたまま年に一度のほんわかした気持を味わっている方がいいという気持と、どちらにも踏ん切れないまま、今年も年賀状の整理をしている。

 げに年賀状とは、嬉しくもあり、切なくもある、捨てがたい文化である。


※ 
十二支の絵が揃っていないとお気づきの方は、別稿『シンガポール・バンコクの裏側(2)』をお読みくだされば、小生が絵も見たくないという動物がいることをご理解いただけると思います。

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