浅薄な愛とその限界


 高校生の恋愛なんて、たわいもない限り。ミルク臭い小娘が、好きだの嫌いだのと言っても、あほらしくて相談に乗る気にもならぬ。
「どうせ別れるんだから、あんまり深入りするなよ」
 まあ、助言としてはこのくらいがせいぜいといったところであろう。
 ところが、当の高校生たちは自分たちがいっぱしの大人だと思っているから、私のこのような態度にはいたく不満である。ワタシはシンケンです、から始まって大人たちの恋愛批判まで、とどまるところを知らない。
 勿論、高校生がすべての面で未熟だという訳ではない。それどころか、我々大人が驚嘆するような完成度を示す場面も多々ある。しかし、こと恋愛となると、無論個人差はあるにせよ、総じてションベン臭いとしか言いようがない。
 彼らは「愛」という言葉が大好きで、あっちでもこっちでも「愛」の大安売りが行われているが、それと同じ数だけ「別れ」が待っていることに、どうも気がつかないし、気づこうともしない。
 ではなぜ、高校生はこうも簡単にくっついたり離れたりするのか。理由は色々あろうが、はっきりしている理由の一つは、彼らの多くがお互いの外見のカッコ良さに惹かれてくっつくところにある。
 なにしろ未熟であるから、人間観察の基準が外見しかないのだ。
 芸能人の写真など壁中に貼って喜んでいるが、見ればすべて美男美女で、スタイル抜群なのは言うまでもない。
 まあ、長ずるに従って人の魅力がもっと多様なものであることに気づき、壁の写真も減っていくのであるが、高校生ぐらいはちょうどその端境期で、まだまだカッコいい芸能人やスポーツ選手への憧れが強い。
 だから身近な異性の中についついそうしたイメージをだぶらせ、見かけの良い者に出会うと気持を昂ぶらせてしまう。現に、目下恋愛中と称する男女に、君の彼氏彼女はどんな人かと訊いてみると、十中八九、タレントの○○に似ているというような答が返ってきて、苦笑を禁じ得ない。
 まあ、似ても似つかぬオカメ・ヒョットコをそこまで見まごう錯覚というものの力は偉大であろうが、これなどもルックス至上の未熟さが為せるわざであろう。
 ところが、ここに困った問題がある。それは人間の五感のうち、首から上にあるもの、即ち視覚・聴覚・嗅覚・味覚は外界からの刺激に対して極めて慣れ易いということである。それぞれの感覚についていちいち説明してはくどくなるから、とりあえず視覚だけを見てみよう。
 たとえばカッコいい車を買ったとしよう。初めて乗ったときは乗り降りの度にコーフンするだろうが、3日も4日もコーフンできるものではない。
 新しい家に引っ越したとしよう。最初の1日か2日は部屋を見回したウットリしたりもするだろうが、1週間も2週間も部屋を見回している者はいない。
 人間も同じだ。例えばすごい美人に出会ったとしよう。その日1日くらいは相手の顔を見る度に、いいないいなと思うかも知れない。だが1か月も2か月も眉目の形に見とれているということはない。つまり形に慣れてしまう。もっと言うならば、飽きてしまうのである。
 その点、大人は相手の外見よりも内面、即ち目に見えない部分により惹かれて恋をする。それは目に見えないだけに、次々と新しい発見や感動がある。相手の行動や動作、話の内容、そういったものからその人の人間性が次々と出てくる。つまり、飽きないのである。
 勿論、その逆もある。最初の2、3回は相手の言うことにすごく感心していた。だけどだんだん話が退屈になってくる。つまり話が単に調子いいだけで、深みがない。そうなると、最初の感動が失望に変わってくる訳だ。
 だから、外見のはかなさに比べればマシだとはいえ、内面の魅力だって、保ち続けるためにはそれなりの努力がいる。いろんな体験をして、いろんな本を読んで、考えて考えて、自分を深めていく。広い知識と深い思考・・・そういうものを持ち続けないと、やがて人に飽きられていく。
 ところが、ここにもまた困った問題がある。人は、一度恋愛関係が出来上がると、つい安心してしまう。この女は俺のものだ。あの男はアタシのものだ。そう思った途端に緊張感がなくなってしまう。
 緊張感がなくなっても、もともと持っているものが多ければ相手を飽きさせないだけの弾が撃てるだろうが、底の浅い、薄っぺらな知識と考えしかない者が、調子良さだけで自分を良く見せていた場合には、どうしてもネタが尽きてしまうのである。
 つまり、高校生あたりの恋愛は表面的なカッコ良さがその重要な要素になっているだけに、たちまち慣れ、飽きてしまうのだ。
 稀に外見よりも内面を大切にする感心な高校生もいるが、残念なことに、その場合でもまだ知識や思考という点で十分な蓄積がないので、やはり長続きは難しい。
 といって、無論大人の恋愛が盤石という訳でもなく、長続きするためにはやはり、色褪せない人間性を築き上げておかなければならない。大人だというだけで高校生より優れているとは言えないのであり、大人だというだけで本当の愛がわかるというものでもないのである。
 さらに言えば、仮に愛とはなんぞやということが分かったとしても、人から愛されるということは稀有にして至難なことであり、それを得るには不断の努力が要る。
 けだし、人間もまた交尾の相手を求めて涙ぐましい努力を続ける動物界の習いと無縁ではいられないということであり、人間の場合は恋愛が必ずしも交尾を伴うとは限らないというだけのことである。
 だから、そういう努力という面に思いを致さず、ただチャラチャラと「ごっこ」に浮かれている高校生が「愛」などという言葉を安っぽく使うのを聞くと、歯は浮くは、耳の後ろは痒くなるはで、もう目も耳も塞ぎたくなる。
 辛酸なめた大人ですら「愛とは何ぞ」と訊かれて即答できるものではない。
 高校生諸君、まずは自分を磨くことだ。苦労して、努力して、人を守るだけの力を身につけてから、ゆっくりと「愛」という言葉の意味を勉強することだ。


 
高校教員としての在職中に書いた文章ですが、案の定、生徒からはかなりの抵抗を受けました。
 今なら「どこかの年寄りが書いたもの」として、それほど構えずに読めると思いますので、ネットサーフィン中の高校生が偶然アクセスしてくることを期待して載せてみます。


もれなく取って、あわよくば返さず  武則天考 
     
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