この言葉、なんとかなりませんか(5)


~したいと思います



 政治家が失言などで謝罪を余儀なくされたとき、よく「お詫びしたいと思います」という言い方をする。
 聞いていると、「お詫びしたい」とは言っているが、「お詫びします」とは言っていない。つまり、その時点ではまだお詫びしていないのである。
 文脈として「お詫びしたい・・・とは思いますが、やっぱりお詫びしません」と続けることも可能なのだ。
 それなのに、それで収まってしまうのが不思議である。

 日本語は最後まで聞かないと判らない、というのはよく言われること。
「私はあなたを愛・・・します(しません)」「私は旅行に行き・・・ます(ません)」「私は肉を食べ・・・ます(ません)」という具合に、肯定か否定かは最後にくる。
 その点、英語は“
I love ~”“I go ~”“I eat ~”と初めに自分の意思を宣言してしまうし、否定なら主語のあとに早々と don't をつけてしまうので、聞き手にしてみれば話者の本意を忖度しながら最後まで油断なく聞き取るというような努力を必要としない。まことに潔い言語である。
 潔い言葉・・・ではあるが、それは見方を変えれば「せっかちな思考回路に合った言語」ということもできる。一刻も早く結論を言いたい、一刻も早く結論を聞きたい、という性急さからくる文化なのだろう。
 そういう見方からすれば、日本語は最後まで聞かないと判らないというのは別に悪いことではない。相手の表情を見ながら軽い期待、あるいはかすかな不安を抱いたまま最後まで聞く、というのも心のあり方としては機微に富んだものである。
 いけないのは日本語ではなく、「最後まで聞いても判らない」ような言葉の使い方だ。
 その一つが冒頭にあげた「~したいと思います」であり、「~します」とは似て非なる使い方である。

 私の知る人に、すこぶるつきで穏やかな性格の人がいて、仕事でマイクを握ると「よろしくお願いしたいと思います」「ご案内したいと思います」「ご紹介したいと思います」というように、なんでも「思います」と言う。
 私は聞いていて、いつも、「お願いするのかしないのか、はっきりしてくれよ」「案内はするのかい?」「紹介する決心はついたの?」と突っ込みたくなる。
「よろしくお願いします」「ご案内します」「ご紹介します」と言えばすっきりするではないか。
 まあ、この人は前述のとおり善良で遠慮がちな性格であるから、ものごとをズバッと言うことにためらいがあるのだろう。聞いている人も実際には「どっちなんだ?」と判断に苦しんでいる訳ではない。私も本気で苛立っている訳ではない。
 
 だから説明会の司会ぐらいだったら、それでもなんとかなってしまう。
 だが、それでは済まぬ場面もある。仕事となれば「だから何だ?」と訊かれるようなもの言いばかりでは済まない。
 例えば会議だ。私の職場に、絶対に、賛否を明確にしない人がいた。
「そうですねえ」「いろんなケースが予想されますが」「一概には決められない問題で」などなど意見陳述は長いのだが、だからどうだという結論がない。要するに賛成なのか反対なのかと訊かれると、「現時点ではどちらとも決めかねます」と逃げる。
 なに、現時点でなくたって、最終的に多数決という段になったって、棄権に回ってしまい、手を挙げはしないのだ。旗幟鮮明にすればあとで責任を追及されるリスクが大きいので、どんな場面であれ先ずは保身ということが習い性になっているのである。
 拙稿「この言葉、なんとかなりませんか(1)」にも書いたが、どうも日本中、責任回避の風潮が蔓延し、曖昧なもの言いが多くなっているようで気掛かりでならない。
 そのあげく、「私の言い方がご迷惑をおかけしたとすれば、お詫びを申し上げたいと思います」などという、意味不明の謝罪(?)があったりする。
 こういう言い方には、「迷惑をかけてはいないが、仮に迷惑をかけたと仮定すれば」という意味が隠されている。はっきり迷惑をかけたとは認めていない。加えて、「お詫びを申し上げたいが、まだその段階ではない」という未練がましさも潜んでいる。
 
 こういうまだるっこしい言い方に比して、東京都知事の石原慎太郎さんは歯切れが良い。少々乱暴なもの言いで、しばしば物議を醸すが、都民が「よく言ってくれた」と溜飲を下げる場面が多いのも事実で、話が判りやすい。
 政治家の発言は意思の表明である。責任が伴う。曖昧では困るのだ。
 歯切れの良さでは自民党の小泉純一郎元首相も負けていなかった。歯切れが良いということは両刃の剣でもあり、ときにその発言を巡って国会が紛糾したりもしたが、最後まで高支持率を保ったのは、うじうじと意味不明のことを並べたてる政治家たちに庶民がうんざりしていたことの証左でもあろう。

 といって、誰でも歯切れ良く断定調で語ればいいというものでもない。
 石原さんや小泉さんは、その政策の是非は別として、リーダーシップも実行力も群を抜いており、ゆえに断定的なもの言いも説得力があった。
 それが民主党の鳩山由紀夫さんとなると、そうした資質は皆無でありながら、2009年の衆議院議員選挙に際して、子供手当だの高速道路無料化だのといった大風呂敷を派手に広げた。それらを実施するには16兆円の財源が必要であり、自民党はじめ多くの党がそれを画餅と非難したが、鳩山さんは選挙カーの上で、自民党政権下の無駄を削ればそのくらいのカネはたちどころに得られると演説。その甲斐あって政権交代が実現した。
 ところが鳴り物入りで行った事業仕訳で削れた予算はわずか数千億円。その後枝野幸男さんや蓮舫さんのスタンドプレーで多少の増額はあったものの、広げた風呂敷のほとんどは絵空事であることが露呈した。その民主党は、公約が実現できない言い訳として今度は財源がない、財源がないと繰り返しているが、どの口からそのようなことが言えるのか。
 鳩山さんについてはその他にも歯の浮くような言葉が沢山あり、それらがことごとく雲散霧消している。
 だから、鳩山さんのような、実行力も指導力もない人が見通しも曖昧なまま断定的なもの言いをすると、それはそれで収拾がつかなくなる。彼の場合は「~したいと思います」と言った方がいいのだが、そういう人に限ってやけに断定的な言い方をしたがるので、それもまた困りものである。
 そのあと首相になった管直人さんはもっとひどかった。鳩山さんは前述のとおりながら、人が良いだけ、まだマシだった。
 管さんは実行力、指導力、知識、判断力、何をとっても歴代首相の中で最低であった。おまけに人の手柄は横取りする、自分の失敗は人に転嫁するで、自分の言葉には全く責任を取らなかった。加えて、記者らに対する尊大な態度は際立っており、強いものには弱く、弱いものには強い、典型的な成り上がり体質であった。
 そんな風であるから野党からの追及はもちろん、身内の党内からも遠慮のない指弾を受け、それに抗うためことさらに断定的なもの言いをして、そのたびに付け焼刃が剥がれ、加速度的に信頼を失っていった。

 これらの例から思う。
 過度の用心から人に言質を取られないように「~したいと思います」を連発するのも嘆かわしい、根拠もなしに大風呂敷を広げて人の歓心を買おうというのもさもしい。
 であればせめて、言った言わないで揉めるような場面以外では、「します」というようにシンプルな言い方を心がけたいものだ。
 必要以上の遠慮とか用心深さがなせる持って回った言い方は、聞いていてじれったいばかりでなく、日本語の美しさを損ねてもいる。
 枕草子や徒然草など、無理やり勉強させられて一向に理解できなかった古典の文章は、今にして思えばもの言いが痛快なほどすっきりしていた。それは単に文章作法の問題だけではなく、書き手の潔い性格が根底にあってのことだったに違いない。
 時代劇に出てくる江戸時代の庶民のもの言いも白黒はっきりしていて気持が良い。
「べらぼうめ、てめえっちの御託なんざ聞かなくたって、この俺様の考えは決まってんだ。それで気に入らねえなら、すっぱり縁を切ってもらおうじゃねえか!」
 そういう啖呵が現代では通用しないのは、時代のもたらす社会の変化で仕方がないが、それにしても回りくどい言い方が多すぎる。あとでなんとでも言い逃れのできるようなものの言い方がここまで蔓延すると、責任のがれを意図していない人までもが同じような言い方をするようになる。
「~したいと思います」という言い方をする人の多くが、それを単純に「します」という意味で使っているところが問題で、責任のがれをしようという意図がないだけにそれが普通となってしまい、日本語がどんどん判りにくくなっていく。
 含蓄に富んだ、それでいてすっきりとした美しい日本語を、よってたかってひん曲げていくような愚は、犯したくないものである。


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