兄を訪ねて高野山へ


 兄の名前は信夫という。子供のころからノボーちゃんと呼んでおり、それは今も変わらない。
 多くを望まず、人を責めず、善人といえばこれほどの善人はそういないのではないかと思う。
 家族の中ではオッチョコチョイと笑われ、事実その通りであったが、古今東西、オッチョコチョイの悪人というのはいない。昔、テレビの時代劇で「素浪人月影兵庫」というのがあり、そこに出てくる焼津の半次というのがオッチョコチョイを絵に描いたような、善人のサンプルみたいな男であった。兄はその半次といい勝負ができる。
 小学校のときであったと思うが、先生に俳句を作れ、俳句とは5・7・5で作るものだと言われた兄は、
   ヤカンには お湯が入るよ あったかい
という句を作ったそうだ。そういう句は、悪人には作れない。
 先生は慌てて、季語を入れろとか言ったらしいが、大きなお世話だ。だいたい私は、見たものを17文字で表すなどということがどうして面白いのか分からない。季節を詠み込まなければいけないという条件も理由が分らない。
 正岡子規の有名な句に
   柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺
というのがあるが、そんな句を聞いても、だからなんだとしか思えない。ほかにも村上鬼城の作だそうだが、
   街道を キチキチととぶ ばったかな
という句がある。兄の句と変りがないと思うが。
 そんなことより、兄は運動が得意で、駆け足も速いし、運動会の障害物競争などでは、障害物の上を宙返りで飛び越したりして、喝采を浴びていた。
 木更津には美しい遠浅の海があり、私たちは夏になると毎日のように泳ぎに行っていたが、大きな子は浅い海に飽き足らず、湾と呼ばれる港で泳いだりしていた。無論そこには足の届くような所はなく、飛び込んだら泳ぎ続けなければならぬ。大型の貨物船なども出入りし、危険でもある。
 ゆえにどこの親もそこでの遊泳を厳しく禁止していたのだが、兄はその湾で泳ぎ、その晩「湾で泳ごうぜ」とか寝言を言ったらしく、たちまちバレて大目玉をくらった。そういうスキがあるのが善人の証拠である。
 その兄は、交通事故で死んだ。33歳であった。
 
 大手の会社に勤めていたこともあり、その会社が高野山に持っている社員の墓に合祀された。
 私はそれ以前から高野山には何度も行っているのだが、それは主に歴史の勉強であり、ときには単なる観光であった。
 それが兄の死以来、そこは私にとって兄に会える聖地となっている。無論、兄の墓は地元にあり、そこでも会うことはできるのだが、高野山では旅先で兄と酒を酌み交わすような思いがある。
 高野山での宿は決まっていないが、一乗院というお寺の宿坊には何度か泊まっている。
 平安時代前期の開基だということで、荘厳な寺院建築と錦鯉の泳ぐ回遊式庭園におのずと身が引き締まる。配膳その他の接待は修行僧と思われる若いお坊さんがしてくれるのだが、皆きびきびとして、好感が持てる。ちょっとアルバイトの高校生のような不慣れさもあり、それが却っていい。
 強制ではないが、早朝の勤行には宿泊者も参加を勧められる。私はとくに仏教に帰依している訳ではないが、兄の名を預けてあることもあって、毎回参加している。お経そのものは意味も判らず、ただ朗々とした節回しに酔っているだけだが、その中に兄の名が出てくるので、聞き漏らすまいと耳を澄ましている。兄の名を聞きとったときは有難さに涙が出そうになる。
 まことに心洗われる宿ではあるが、宿泊客の中には宿坊を単に安い宿ぐらいにしか考えていない者もいて、必ずしもマナーが良いとは限らない。あるときは親・子・孫の3代と思われる家族連れと同宿になったが、これがうるさいのなんの、深夜まで騒いでいる。子供の声なら仕方がないが、むしろ大人たちの方が節度がなく、こちらはいつまでも眠れず閉口したものだ。
 言うまでもないが宿坊はお寺であり、各部屋が厚い壁で仕切られている訳ではない。ふすま1枚の隣には他人が寝ているのだということぐらい意識できないのでは仏様も呆れるであろう。仏教そのものに造詣はなくても構わぬが、せめて敬神崇祖の念をもって、“泊めていただく”というつもりで振る舞いたいものである。

 さて、高野山は言わずと知れた真言宗総本山金剛峯寺をはじめとする百余の寺院を擁する修行の山である。平安時代初期、最澄とともに唐に渡った空海(弘法大師)が帰国後真言密教を展開したことで知られる。
 ちなみに最澄は都に近い比叡山で天台宗を開いている。それに比べると、遠く離れた未開の山頂に拠点を構えた空海は、あまり陽の当たる存在ではなかったのだろうか、という気もしてくる。
 同じ船で唐に渡って修行したと言っても、その時点で最澄は既に天皇の護持僧として高位にあったのに対し、空海は一介の私度僧でしかなかった。私度僧とは、試験を受けずに自分で僧侶になった者で、その多くが納税や兵役逃れの方策としてのことであったらしいから、まあ、周りの見る目には差があったであろうと想像できる。
 空海もその辺は痛いほど分かっていたようで、渡唐の直前につじつま合わせのように得度してなんとか体裁を整えているが、エリートである最澄にしてみれば、空海などライバルとしては取るに足らない存在だったのではないだろうか。

 そんなことを考えながら寺々を回る。
 高野山といえば金剛峯寺というイメージが強く、日本史の教科書にも「最澄・比叡山・延暦寺」「空海・高野山・金剛峯寺」と並べて記述しているものが多い。
 そのためにうっかりすると延暦寺は最澄が、金剛峯寺は空海が建てたと思いがちであるが、両僧とも原野に忽然と大寺院を建立した訳ではない。それぞれ別名の小さな寺院での修行、教育を重ね、延暦寺、金剛峯寺という名はともに後世の改名である。
 高野山について言えば、空海は若い頃ここで修行しており、曼荼羅世界を作る適所としてこの地を嵯峨天皇から下賜されたということらしい。
 空海存命中には堂宇の建築は小規模であり、金剛峯寺という寺も存在しなかった。豊臣秀吉が亡母の菩提のために剃髪寺を建て、それが青厳寺となり、明治になって金剛峯寺と改号された。そもそも金剛峯寺とは空海が高野山全体を一山として名付けたもので、もともとは寺の名ではない。
 しかし、そんなことはどうでもよい。私はそういう史実よりも、空海がこの地を選んだ理由として伝えられる次のような話の方に興味がある。
 唐で真言密教を授かった空海が、帰りの船の中で唐での師から貰った仏具を空中に投げ上げ、伽藍建立の場を教えていただきたいと念じたところ、その仏具が高野山の松の枝に掛って光り輝いた。それを見てこの地を真言密教の拠点に選んだというのである。
 船の上から投げた物が紀伊半島のど真ん中の山中に届いたとは、いやはや恐るべき遠投能力をもった空海ではないか。
 実はその類の空海伝説は全国にあり、芋を石に変えたり、杖で地面を突いて温泉を噴出させたり、勧善懲悪のためには魔法使い顔負けの秘術を尽くしている。福島県の猪苗代湖は、村の娘が残り少ない水を空海にあげたところ磐梯山の麓が湖になったものだそうで、慈悲の大切さを説いている。
 かと思うと石川県では村人が水を惜しんで空海に与えなかったので、腹いせに村の水をすべて飲めない水にしてしまったという、いささか大人げない話もある。
 まあ、これなども雲上人である最澄に比べて空海が凡俗に身近な存在であったという証ではあるまいか。
 そして、気がついてみれば、あの最澄が「比叡山延暦寺」「天台宗」というキーワードでしか人の口に上らないのに比べ、空海の方は仏教について何の知識もない広い層にまで「お大師様、お大師様」と慕われる存在になっていた。
 空海の足跡をたどる四国霊場八十八か所遍路はあるが、最澄の足跡を辿る旅というのは聞かない。エリート最澄と、私度僧あがりの庶民派空海という図式が可能だとすれば、広く長く民衆の支持を得たのは後者だったと言えるのかも知れない。
 ともあれ、現在は金剛峯寺という名が一寺院の名として用いられており、高野山の中心的存在となっている。現在の建物は江戸時代末期に再建されたもので、思いのほか新しい。緩く反り上がった桧皮葺の大屋根は一分の隙もない立派なものだが、その上に天水桶が載っているのが、なんとも現実的でほほえましい。

 前に述べたとおり高野山全域には百に余る寺院が軒を並べており、観光的には有名とは言えぬ寺々が多いのだが、丹念に見て歩くと、どうしてそれぞれが他に譲るべからざる空気を持っている。1回の旅で訪れることができるのはせいぜい2,3寺ではあるが、高野山巡りの醍醐味である。
 観光という面では、何といっても奥の院であろう。無論本来は観光施設ではなく、弘法大師御廟と灯篭堂の周りには凛とした空気が張り詰めている。詣でた者は、誰もが口数少なく、居住まいを正さずにはいられない。
 しかし、その参道はさながらアミューズメントパークであり、大河ドラマの主人公たちの墓所巡りはスタンプラリーにも似た娯楽を提供している。なにしろここには、歴史上の有名人物の墓がこれでもかというくらい集まっているのである。
 織田信長、明智光秀、武田信玄、上杉謙信、伊達正宗、石田三成といった戦国大名の墓に人気が集まっているが、源頼朝・頼家・実朝各将軍の墓もあり、法然上人、親鸞上人の墓所もある。花菱アチャコ、柳家金語楼といったコメディアンの墓も親しみが持てる。
 もちろん戦争で亡くなった人たちを慰霊する碑も多数あり、先述したように大手企業が在職中の物故者を合祀している墓所もある。そして、その中に私の兄も合祀されている。
 先年、私は3人の姉とそれぞれのダンナさん、それに私の妻を加えた7人と一緒にそこを訪れた。姉たちとはその前にも一度詣でているが、そのときやっぱりダンナ衆と一緒に来たいという話になり、それを実現させたことになる。
 
 高野山、水向け地蔵
それは大変喜ばしいことであり、伊勢から紀伊半島を横断する観光も兼ねて、楽しい旅であった。
 しかし、実をいうと、その旅にはせつない一面もあった。ダンナ方の一人、斎藤幸雄さんが癌に冒され、そのときには小康を保っていたとはいえ、いつまで元気でいられるかは予断を許さぬ状態であったことである。
 身体の負担を慮りはしても、その幸雄さんを抜きにして出かける選択肢はなかった。本人への励ましの意味もあったし、なによりも兄にとって幸雄さんは恩人だったからである。
 兄は大手企業に勤めていたと先に書いたが、幸雄さんはその会社の社員であり、幸雄さんの引きを得て兄は会社に入っている。公私に亘り大変な世話になったその幸雄さんが高野山に足を運んでくれれば、兄の喜びはいかばかりであろう。
 幸い幸雄さんは見かけ上は元気で、兄の合祀墓にも詣でてくれた。その晩、あの一乗院での夕食のときに、私は幸雄さんを励ますつもりで、5年後にまた来ましょうなどと言った。幸雄さんがそうしようと思ったか、5年後は無理だと思ったか、私には判らない。そうだね、と相槌を打っていた姉たちの心中も複雑であったと思う。
 そして、その最後の旅から7か月後、幸雄さんは亡くなった。
 既に退職していたが、永年の功績が認められて特別に合祀され、今は兄と一緒に高野山の杉木立の中にいる。
 いつか私もあちらの世界に移るわけだが、その時にはノコノコと高野山に出かけて、3人で空海の愛した景色を眺めながら酒でも飲みたいものだ。
 案外2人はもう戦国大名たちと親しくなっていて、
「おう、よう参られた。もそっと近う。まずは一献」
などと昔言葉で迎えてくれるかも知れない。
 
この言葉、なんとかなりませんか(2) 生きているポンペイ
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